よきことと試練

何かことを行おうとすると、これを妨げるような動きが必ずある。
なぜよきことをしようとするのにこれを妨げるようなことが起こるのだろうかと不思議に思っていた。
しかし、そんなことを不思議に思う方がおかしいのだ。
よいことをしているのだから神様も協力してくれるはずだ、というのは間違いだ。
いいことをしようと思ったら、むしろ悪魔が積極的に動き出し、それを邪魔しようとしてくる、というのが正しい。
何もせず、悪いこともせず、タラントを浪費している限りは悪魔は動かないのだ。
本当に人々がよきことのために動き出したとき、そのときにこそ悪魔は動き出す。
しかも、悪意や悪魔は正に善意の顔をしてやってくる。
そして、最も大切な価値やそこへの努力を踏みにじろうとする。
これに対抗するのは、一見大変なことのように思える。
しかし、そのように見えることが、そもそも相手の策略なのだ。
聖書に、荒れる湖に弟子たちがおののき、イエスを起こしたところ、イエスが「信仰薄き者たちよ」と言って、波風を鎮めたとある。
当然だ。
実は、荒れているのが問題なのではなく、荒れていることに動揺する自分の気持ちが問題なのだ。
多くの場合、荒れている波風は自分のやるべきことととは関係がないのだ。
よく問題を把握し、自らのやるべきことをきちんとやる、それでよいと言うことか。
こんなことは、頭では前から分かっていたことだが、それを自らの血肉とすることが大切と言うこと、言い換えれば一刻一刻を厳しい戦いとして過ごすことを実践することは容易ではないと言うことか。
異端審問に赴くエックハルトの気持ちを思う。