もう一つ愛されること

老人をストレスから防御する、との脈絡において、中井久夫「つながり」の精神病理208ページに次のような記述がある。

・・・・激変のときに老人を守るのはまず自尊心であり、これをどう保つかには、老人の人格を崩れさせないという根本的な重要さがある。もう一つは自信であり、特に自活の自信である。男子老人の脆さは自己管理の自信のなさにある。男子老人の脆さには、もう一つ愛されることへの自信のなさがあるのかもしれない。

一方、女性老人は子どもからの愛を当然視する、と続く。
それは、男性は女性ほど子どもに(生まれる前も含めて)自らの時間を費やしていないことから来る当然の帰結だろう。
引用した文章の最後の「もう一つ」という言葉が効いている。
当然文脈からすれば、「もう一つ付け加えれば」という意味ではあるのだが、「もう一回愛される」と読みたい強い誘惑に駆られる。
高名な方が伴侶の死の後、急速に衰えたり自殺したりする場合もあるが、それはことによると「もう一つ愛されること」への絶望があるのかも知れない。
しかし、老いて後、永遠に逢うことがなくなってもその思いに生きることができる程、日々を行為としての愛に過ごすこと。宗教的なものとは別に現し身の人への愛に、逢うことがなくなっても生きること。
それが静かに、優しく穏やかに一人の老いを生きる為に大切なのかも知れない、と思う。


「つながり」の精神病理

(追記)2021/05/04
上記では、伴侶の死後の自死について記載している。自らを振り返り、そのようなことが有り得るのではないかと思う。とは言え、高名な方も含め、老境になった方々の自死にはさまざまなケースがあると改めて思う。
私の知っている方で、自死した方がおられるが、ご家族の方は、その方を、亡くなられ方も含めて誇りに思っておられる、とのお話を聞いた。
日本では、一定の様式に従った自死を評価してきた。即身仏切腹、また形式は様々でも自らを義性にするという行為があった。今、「自殺」とされる行為についても、そのようなものがあるのだろう。