エレガンスの流儀 加藤和彦

私が嫌いな表現の一つに
「・・・・・のように思うのは私だけだろうか。」
というのがある。
この表現を読んで不愉快になるのは、自分の考えに他人を勝手に巻き込んでしたり顔をしている雰囲気があるからだろう。

さて、今、私は蔦温泉にいるのだが、私の泊まっている部屋には本が何冊か置いてある。
その中に、加藤和彦さんの「エレガンスの流儀」という本がある。

これが結構面白い。そして、その中の、「英国人における着崩しの考察」という章を読んでいたのだが、例えば英国人が絶対にしない着崩し方として「ポケットに手を入れる」を挙げている。実は私もあれは格好悪いと思っているので、読んでいてうれしく思ったことだった。

考えてみると、ポケットに手を入れて悦に入っている人を見て格好悪いと思うのは、「・・のように思うのは私だけだろうか」という表現と同じく、自分は格好いい(ことを言っている)、お前もそう思うだろう、という押し付けがましさを感じるからかも知れない。*1

ところで、この「英国人における着崩しの考察」という章は、
「こういった、着崩しの方が優雅に思うのは私だけであろうか。」
という文で終わっている。
私が嫌いな表現のはずなのに、通常この表現を読んだときの不愉快さを感じない。
それに逆に違和感を覚えてしまった。

これは何故だろうか、と考えるに、加藤和彦さんは、単純に字義の本来の意味で、
「私だけだろうか、これは結構変なので、こんな風に思うのは私だけかも知れないし、ことによると同じように考えてくれる人もいるかも知れない。そんな人がいたらうれしいが、ただ、私だけでも結構だ。」
と思いながら書いたのだろうな、と文章の流れで分かるからだろう。
それは、この箇所だけではなく、全体の文章の流れというか雰囲気も品があり、それがこの自然さにつながっている。

これは、天性のものかも知れないし、厳しい鍛錬の賜であるかも知れない。
そもそも、この本のタイトルである「エレガンスの流儀」であるが、肝心なことは「我慢」である、と言っている。

エレガンスであるために、表現自体をニュートラルなものにする、研ぎ澄ます、ということも、これは正に大変な我慢がいることだろう。
自ら命を絶ってしまった加藤和彦さんだが、時々行かれていたバーにお邪魔した折にでも、改めてマスターにお話を聞いてみたいと思う。

エレガンスの流儀

エレガンスの流儀

*1:まあ、私の場合、逆にちょっとカッコ悪い雰囲気を出したいときに、そうした格好をすることはある。  Leaf の Routesの最後に主人公がポケットに手を突っ込んで歩き出す場面がある。あれは、自分として大きな仕事をし、そのようなときには謙虚な気持ちになるものだが、そのようなある意味で小さな、大したことのない自分というのを表現するとき、ポケットに手を入れている。このようなときには、背中もなんとなく丸くなる感じか。私は、その気持ちがしみじみと分かるように思うし、多くの方とは共有できるのではないかと思っているが、Routesの評価を見ても一部の方は、何をやっているのか、という感じを持たれるようだ。