パウロの手紙

今日も雨。
でも、街に出て本屋さんにふらっと寄りました。
NHKの語学講座の来月分のテキストでも出ていないかな、と思って見ると、
パウロの手紙を語る」
という「こころの時代(宗教・人生)」のテキストがありました。
放送もちょうど明日から。
やっぱり、これは今パウロの手紙について勉強せよ、ということなのかな、と思い、テキストを購めて帰りました。
まだ全部読んでいませんが、冒頭のコリント遺跡の写真などを見ていると思いが広がります。


私はキリスト者ではなく、むしろ仏教の出自を持つ者ですが、大いなる神が具体化され唯一神として存在していることと「イエスが罪を背負って死に、復活した(死を超克した)」というビジョンは(布教の上で)強力なものであると思っています。
ただ、キリスト者の中には、キリスト者以外の心情を理解するのに頑なであったり、教会の定めから外れる人に非寛容であったりする人もいるかもしれません(そうした人は真のキリスト者ではないのかもしれませんし、また他の宗教にもあるのかもしれませんが。)。
レ・ミゼラブルの中で、フォンテーヌがマドレーヌ氏の工場をやめさせられるきっかけとなった、熱心な「キリスト者」の女性の、私生児を見つけそれ故にフォンテーヌをやめさせようとする行動など、切なく読んだことを思い出します。
例えば、イグナチオ・デ・ロヨラは「小罪をあばくことは小罪であり、大罪をあばくことは大罪である」と言って人を非難することを諫めていますし、イエスも「他人の目の塵をとりのぞく前に、自らの目の梁をとるように」と言っています。また、姦通の娘を群衆が連れてきたとき、下を向いて地面に「の」の字(かどうかわかりませんが、私はそんな気がしています)を書いていて、皆が去った後「私もあなたを罪に定めない。」と言ったイエスの姿など、本来はキリスト教は、少なくとも個人の具体的な過ちに不寛容なものではないようにも思います。


「死の棘」について言えば、さきの「パウロの手紙を語る」において太田愛人さんは「人間の真の解放は、最終の目的である律法と罪と死から脱することであり、イエスの死と復活がそれを可能にしたことをうたい上げます」と語っています。正に「律法」という狭い世界から普遍宗教にキリスト教がなろうとする上で実は重要な概念が死と復活であったことを教えられました。
また、今回、パウロの復活に関する記述を読んでみて感じたのは、パウロが実は必ずしも肉的な復活を言っているのではないように思えることです。イエス自身もそうかもしれませんが。そもそも肉的な復活については聖書の中でも記述が分かれています。その意味では、キリスト教について、復活を主張する故に「非現実的だ」と言う批判を行うことは的外れなのでしょう。