物語の多義性

先日、ある人が、竹内まりあさんの「駅」という曲が好きだ、と話していた。
私は知らなかったので、ネットで検索してみる。
YouTubeで聞いてみると、懐かしい感じのよい曲だった。
そのコメントを見ると、歌詞の解釈が二様あり、それぞれに思いを書いたコメントが付いている。
そればかりか、中森明菜さんの歌い方は、竹内まりあさんの歌い方とは別の意味にとれるという。
聞いてみると、確かにそんな雰囲気だ。
これは凄いことだと思った。
歌も、小説も、映像も、或いはPCゲームなども、世に出たときから作者の手を離れて一人歩きをし、それぞれの人の人生を豊かにする。
むしろ、多義的な理解ができることが作品の奥深さ、素晴らしさを示すものではないかと思う。
その意味では、山下達郎さんが中森明菜さんの歌唱にしたというコメントは不要であったかも知れない。


ふと、グレアム・グリーンの The End of the affair の訳を思い出す。
田中西二郎さんは、当初「愛の終わり」と訳すが、後に「情事の終わり」と改題する。
また、映画では、1955年のものは日本で「情事の終わり」、1999年のものは日本で「ことの終わり」という題名で公開された。
いずれもじみじみとする題名。
1999年の映画の邦題も面白い。