マグカップの購入

札幌に来て間もない頃、コーヒーをネル布で入れるための器を買ったお店に再訪。
このお店は、食器やポストカード、ごくわずかの衣類や小物などをおいているのだが、それよりも、たくさんのレコードが、一つの壁面を高い天井一杯まで占めて並べられているのが目につく。そして、店の五分の二くらいは仕切られていて、その部分にはスピーカーや何か不思議なものが置かれたりして、ご主人とかが気持ちよく過ごせるのではないかと思われる空間になっている。

私は、今日はマグカップを買おうと思ってやってきた。
前回お伺いした時は、とても美しい、生き生きとした年配の女性がおられた。
たくさんのレコードのことを聞くと、
「主人が家に置ききれなくなったものを置いているんです。」
と言っていた。

今日は、「電話室」と書かれた古びたドアを開けると、ちょっと無愛想な、年はとっているけれど少年のような、少しだけ口髭も生やしている男性がカウンターの中にいる。
マグカップは、いつも自分と一緒にいるような存在なので、気に入ったものを買おうと思っている。
札幌でもいろいろなお店に行ったけれど、なんとなく物語がありそうなのは、このお店だった。
私が買うことにしたマグカップについて、
「これを作った方はどんな方ですか。」
と聞いてみる。
すると、
「それは、量産品で。。。」
と、カウンターの中のご主人が言う。まさに、身も蓋もない言い方。
それは、まあ、そうなのだろうけれど、おそらく、前、訪れたときにおられた女性の方が見立てて、このお店に置いているものなのだろう。
私が買おうと思うくらいなので、怪しい雰囲気もあるカップだ。本当は、どの工房で作られたか、くらいの話はあってもいいように思った。

今日は、お店のドアを開けると、ビルエバンストリオのWaltz for Debby のアルバムの中に入っているWaltz for Debby がかかっていた。
ご主人に、
「この、たくさんのレコードは、ご主人のですか」
と聞くと、私にちょっと目を向け、それから下を向いて、ゆっくり、
「私はジャズをやるんです・・・・・・サックスを吹くんですけど・・・・・若い頃、どうやって吹いたらいいかと思って・・・・・たくさんレコードを買って・・・・聴きました・・・・・」
と、途切れ途切れに話す。
前回、奥さんであろう、美しい年配の方は、そんなことは言っていなかった。

そうか、と私は思った。
こんなことを言うのは失礼かも知れないけれど、私も若い頃(そして今も)本当に内気で特に女性などとは話せなかったけれど、勿論、全然もてず振られていたけれど、そして今も若い頃の自分を振り返ると女性に相手にされなくても当然の存在だったな、と思っていたけれど、ことによると、それでも素敵な女性に慕ってもらえる可能性はあったのだな、と。

私は、私のためと、もう一つ、マグカップを買ってその店を出た。
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