眞先敏弘「酒乱になる人、ならない人」

ふと読んでみた本。
私自身は、そんなに酒乱ということもないと自分では思っていますが、社会的に問題になっていなくても、お酒の上での行為で反省すべきことはかなりあります。
また、アルコールを含む依存症の問題や、病に至らなくても自分として好ましくないと考えているのに習慣化している行動にも取り組みたいと思っています。
この本は、題名がやや軽めではありますが、内容は充実しており、よい本と思いました。

酒乱になる人、ならない人 (新潮新書)

酒乱になる人、ならない人 (新潮新書)

印象に残ったところを引用してみます。

酒や麻薬はそれらの薬理学的作用によって人工的に快感という報酬を人間に与えているのだということが分かってきます。酒飲みには耳が痛いでしょうが、酒を飲んで酔うことのこのように何の努力も伴わずに快感という報酬を得ることなのだ、という認識を持たなければなりません。そして世の中そう甘くはないというのは、この努力いらずの快感が「依存症」という恐ろしい病気と常に表裏一体の関係にあるということなのです。当然ですが報酬を得る正しいやり方は、そのために一所懸命努力するということです。また私たちのごく正常な日常生活で快感を得るにはこの方法しかないのです。そして努力し苦労した時間が長いほど、目的を達成した時の快感も大きいものです。こうした種類の行動においては連続した快感を得るのは難しい。なぜなら報酬と報酬の間に努力している時間が必ず必要だからです。このことは依存という現象を考えるうえで大変重要です。
次のことをぜひ覚えておいていただきたいと思います。すなわち快感を得るのが困難であるほど、その行動に対する依存が形成されにくいということです。逆に言えば飲酒や麻薬の注射のように連続した快感を得るのが容易な行動ほど依存が形成されやすくなるのです。個人的な見解ですが、報酬を得るのが困難であれば困難であるほど、それは価値のある行動と言えるのではないでしょうか。

この議論には異論もあるでしょうし、また、そうであるとしても厳しい環境下のストレスを一時的にでも緩和するための快感を得るということは意味があるのかもしれません。
また、依存症という形で病気になってしまった方には当てはまらないかと思います。
麻薬のような薬物を一度やってしまった人に対して、価値の判断を求めるのも難しいところがあるかと思います。
ただ、通常暮らしている私のような人間には考えるべき言葉と思います。
それにしても、逆に一生懸命努力して成果を得る、ということは、依存症というか習慣化することが難しいというのはしみじみします。

なお、先日読んだ町田康さんの「しらふで生きる」では、記憶がだいぶ薄れていますが、晩に飲むお酒で得る(小さな)幸福(快感)について、
一日頑張ったから少しお酒を飲むくらいの幸せを得てもいいだろう、と考えるかもしれないが、人間はそのような幸福に値しないのではないか、
ふさわしくない幸福を求めるのはいかがなものか
といったことが書かれていたように思います。
ある意味、似ているようにも思います。

また、アルコール依存症になったら断酒しかない、適度に飲むということはできない、と言われます。
眞先さんは、いわばアレルギーを発症したようなもので、ずっとそれを避けなければならない、という例えをされています。
実は、私はこれには違和感があります。
まずアレルギーとは違うと思いますし、眞先さんも

生涯にわたるような長期の依存形成には、シナプスが新たに作られることにより神経細胞のネットワークが変化するという現象が関与している可能性はあります。

と書かれています。
したがって、その逆によって依存症をなくし、適度の飲酒が可能な認識パターンにすることは可能のように思われます。
まあ、まったく素人の暴論ではありますが。

また、もう一つ、興味深いのは、快感をもたらすA10神経の活動が、人間がある特定の場面に遭遇した時に様々な行動の報酬とそれに伴うリスクを過去の経験に照らして判断することによってどのような行動をとるかを選択するという、非常に高度な機能を果たしている基底核-視床-大脳皮質回路の中の各領域のほとんどのものと連絡している、と指摘しておられます。
また、このことから、

(これらは、人間の行動の選択は多くの場合理性的に行われていると思いがちですが、その実、好きか嫌いか、快感を得られるかどうかといった極めて感情的な影響に左右されているという事実を裏付けています)

と書かれています。
それはそのとおりなのだと思うのですが、まさに眞先さんが書かれていた通り、何によって快感を得ることができると考えるのか(それがその人の判断に組み込まれているか)が問われているということかと思います。
人間は、割と他の人に喜んでもらうのが好きなので、こうすれば相手の笑顔が見られる、ということで快感を得ることができるかもしれませんし、
「世界の平和に貢献する正義の味方のオレってスゲー」という感じで快感を得るような人も、子供を見ていると割といるかもしれません。
その意味で、快感を得るために行動する、ということはあるとして、その快感がどのようなものであるかと判断する、ないしはどのようなことで快感を得るかを自ら習慣づける、ということが大切のように思います。

なお、私は、この「酒乱になる人、ならない人」と「しらふで生きる」を併せて考え、お酒を飲みたくなったら、その目的の小さな快感をお酒以外で得るように心がけてみました。
これが意外と有効ですが、ただ、私としては、山海の珍味が出たら、それに合うお酒は飲んでしまうな、と思っています。
(そんな機会があまりないので問題ないかと思ったりします。)