ギャングスタ・アルカディア

前回も Gangsta Arcadia について書いたが、やはり私にとって特別なもののような気がするので、もう少し書いてみたいと思う。
少しネット上で探してみて、次の感想がなんとなくしっくりきた。
ただ、おかあさんのお話は必須だと私は思っている。

あいか部屋: ソファの上の理想郷

 

ギャングスタアルカディアは短いとか絵が少ないとか言われているようだ。
私自身はそのようにまったく感じなかったが、確かに,事実としてはその通りと思う。

 

それなのに、ずっと考えさせられる。
私も、こうしたデジタルノベルは好きでいろいろやってきた。
ただ、このような感じは初めてだ。

 

何となく、このアルカディアグノーシスを思わせるところがある。
もともと、旧約聖書失楽園のあたりは、何だか変な感じがする。
(まあ、旧約聖書は全般的に怪しい、妙な感じがする読み物ではあるが。)
知恵の実を食べ、お互いが裸なのを恥じる、と言うことがある。
更には、永遠の命の実には人間は近づかせない、といった記述がある。

 

なぜ知恵を得てはいけないのか。
なぜ人間に永遠の命を与えないのか。
更には、エデンの東、とはエデンの一部であったのだろうか。永遠の命の実は、知恵の実を食べる前であれば、「人間」が食べることができたのだろうか。

蛇は一見悪いもののように描かれているが、また、人間に知恵の実を食べることを勧めたことで地を這うこととされたとあるが、それはどのような含意か。地を這うとは、人間にずっと寄り添うと言うことではないのか。また、裸を恥じる精神から一人の人を愛する気持ちも生まれてきたように思う。新訳聖書にあるように、天国においてはそうではないのだ。

 

そのように考えてみると、アマネが人類の人格を救おうとし、ループを奪う病気を広めようとした段階で、実はアマネは天使ではなく、堕天使、悪魔になっていたのではないか。何と言っても、innocent であることが神にとって人間が楽園に住むことの要件なのであり、人格を得ることなど、余計なことなのだ。ループが当たり前であり、更にそのループを普遍化する動きがあるなかで、ループを止めようとすることは悪魔の所業だ。

そして、アマネが受肉できなくなった、とあるが、これは叶にループを与えることで悪魔ではなく天使に戻っただけなのではないか。

その意味で、叶は、徹頭徹尾、悪だったのだ。しかし、厄災を生きる、という段階で、既に悪という言葉は出てこない。正に楽園にいるのだから。悪ではないのだから。


私にとって、このギャングスタアルカディアが特別であるのは、聖書の新しい解釈というか、グノーシスについてしみじみと理解する縁となったためだ。グノーシスも「悪」も、神を否定していない。否定するどころか、人間的な嫉妬する神、人間に知恵を与えない神ではなく、母を弔ったときの悲しみも含めて人間存在であるとする、エックハルト道元の神、別の言い方をすれば、ある意味で宗派を超えた、大いなる存在であると共に人間と合一である、神秘主義的な神をいただいている。

 

最後の選択で、アマネが身を退いたのは、天使も(そして人間も悪魔も)神の被造物であるというアイデンティティを指摘され、しかも、選択しない=神の判断に任せる、というアマネより上位の存在を示されたからと思われる。

 

さて、ここで先に引用した感想にもあるのだが、凛堂禊のポジションがよく分からない。
最後の人格者、という言葉や天使に敵対していることを考えると、「悪」であるようにも思えるのだが、「救世主」という言葉も使っているし、ループのある世界を積極的に推進するような言動もしている。ことによると両義的な存在であり、ルート毎に位置づけが変わってくるのかも知れない。

 

また、宮本が非常に面白い存在だ。
彼女は、初めから子供であり、天国・楽園の住人だ。
そして叶の昔からの友人だ。叶が楽園にいた頃(ループを持っていた頃)からの友人であり、そのままの関係での友人ということだろう。

 

さて、このゲームをやったお蔭で、やはり中国のような民主主義ではなく一人一人の権利にも配慮した民主主義の方を自分としては選択する、ということを理由を持って語れるようになった。

 

仮に、天国を追われた存在=人格を持っている人間というルートが存在した場合、それはどのようなものとなったであろうか。
最後の人格者、と言う言葉や組み立てからして、またリパブリカのジェネシスも考えると、やはり禊か。それともシャールカか。シャールカも両義性を持ちうると思う。

 

前回の記事と同じ最後だが、Orchestral Codeはいいと思う。特にインスツルメンタルで聞くのがよいと思う。

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