運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ

今日はホワイトソフトの「運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ」を始めた。

何というか、気持ちがいい。

この、今いる世界とは別の世界で、少しだけでも遊べるというところが、このようなゲームというかデジタルノベルの楽しさだ。

それにしても、批評空間のコメントを見ても、コメントしている人が実に楽しそうで、それなのに冷静に低い点を付けてんじゃないよ、という気分だった。採点票みたいなチェックリストがあり、それにチェックを付けて総合点数、みたいな点の付け方のできる代物ではないでしょ、と相手も既に十分わかっていることを言ってみたい気分。

(追記)プレイ終了。

このゲームの仕組みは、例えば、シュタインズゲートのような仕組みで、一人を攻略すると、次のルートが始まり、前の攻略はなかったことになる(つきあっていなかったことになる)が、その過程で知り得た謎の解明やヒントなどはプレーヤーに引き継がれていく、という仕組みだ。

この仕組みは結構好きだ。

そもそも、本来、誰かを選ぶとか、本当の意味で全ルートクリアしないといけないとかというのは、特に思い入れのあるキャラがあるときにはつらい。従って、ある意味、軽いレベルで攻略が進んでいくこのシステムは嫌いではない。このような、ある意味なかったことにするというか、ない前提で進んでいく場合、グランドルートでは、ハーレム化するとか、真のヒロインと結ばれるとかいろいろあるが、私は誰とも付き合ってなかった感じが好きかとも思う。シュタインズゲートの場合は、もちろん、紅莉栖という真のヒロインと結ばれるわけで、それになんの文句もないというか、いい感じだった(ちょっと説明が過剰ではあるが。)。

この「運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ」については、敢えてどのようなエンドであるかは書かないが、私は初めて見たパターンのエンドであった。とても爽やかで、うれしかった。このゲームの題名と重なる素敵なものだったので、今後やる人にもそれを経験して欲しいと思う。

私も、今回は、もう一度やってみようと思っている。そして、それを踏まえて、また書きたいと思う。本当に青春のただ中にいる人がこれをプレイしたらどんな気持ちになるのだろう。ことによると、それはとてもよい経験になるのではないかとも思う。引きこもっている人も、いろいろな原因があるのだろうから一概には言えないが、次の跳躍に備えて身を屈めているような引きこもりでしかも本人や周囲がそれに気付いていない(気付いていないので引きこもりと言われるのだが)ような時、このゲームをやると、また歩き出してくれるかも知れないと思う。

私が以前、組織から派遣されて大学で教壇に立っていたとき、組織に戻る前の、最後の授業のときのことだ。私は、授業の出席のカウントは、出席票に一言書いて授業の最後に提出、という形でやっていた。一言というのは、例えば「教室の窓から見える空が青かった」とか何でも良いから書いて出して欲しい、ということだった(もちろん授業の感想や評価でもOKであり、学生の皆さんは、大概はそのようなことを書いてくれた。)。その一言の中や学内LANでの授業へのコメントで「授業に途中から入ってくる人が騒がしいし、出席票は初めの方に配っておけばいいのではないでしょうか。」と書いてくれる真摯な学生もいた。最後の授業の、その最後で「私にも経験があるが、大学時代には、引きこもって本を読み考え込んでしまうような時期があると思う。そのような時期はある意味必要なものと思うが、その経験から目の前が開けたとき、また外に出てくるためのきっかけがなにかあるといいと思っている。例えば、この授業は最後に出席を取るので、まだ間に合うから久しぶりに友人に会うためにでも行って見ようか」というきっかけになればいいと思っていた。まじめに授業を受けている人には少し迷惑だったかもしれない。申し訳なかった。」という話をした。その時は、いろいろコメントをもらっていたこともあり、本当に申し訳ないと思っていたので、謝る意味で説明をした。学生のみなさんの前途を祝し、授業を終えて資料を片付け始めると、徐々に拍手が広がって、全体で拍手してくれたときは驚いたが、うれしく思ったことだった。
本来、大学での最終講義というのは、本当の学者の皆さんにとっては大きな意味があり、その期の学生さんだけではなく、かつての教え子も来たりして、もちろん最後は盛大な拍手で終わるものだ。私の場合、そのようなものではなく、普通に授業をしただけであるが、学生の皆さんは、これが私の最後の授業である、と私が話をしたので、礼を尽くしてくれたものと思う。最後の授業でも、ことさら違うことはしていないので、また出席票を集め、教室を出た。私の、最後に出席をとることの説明について、感想を書いてくれた学生もいた。