るいは智をよぶ

  暁ワークスの「るいは智を呼ぶ」をプレイ。フルボイスによるリメイク版だが、オリジナルは2008年だから、今から13年も前と言うことになる。

オープンングが最高に格好いい。

るいは智を呼ぶ OP 『 絆 』 - YouTube

 何とかやりきったし、それなりに楽しく、終わったときには、また現実で仲間と一緒に戦う意欲も湧いてきた。ただ、それでも、再びやろうとか、ファンディスクを買おうとかは思わなかった。

 いろいろ理由はあるが、一つには「こより」というキャラがなじめないことがある。問題から逃げるのもよいし、また実際の世界でもこのように逃げる者はいる。その事情や心根も分からないことはない。そして、試練を経て成長し、信頼関係を共有し、また共に戦うことができるようになるのかも知れない。ただ、このゲームでは、そのような感じはない。お姉さんへの対応や、トランクの盗み方など、視野が狭く、私としては共に戦いたくない人物だ。また、智についても、こよりの姉(とその不正を行っている会社)の証拠隠滅のために、自分や仲間を危険にさらすという行為が理解できない。思い上がっているように思う。
 もう一つ、私が奇妙に思ったのは、呪いの力がなくなったら、花鶏も家の再興をあっさり諦めてしまったことだ。呪いの力がなくなったところがスタートなのではないか。呪い自体が存在意義だったのだろうか。呪いの力を使わず、誇り高く生きるのが花鶏なのではないのか。誇りは全て呪い由来だったのか。
 更に、智についても、呪いがなくなったのに、なぜオトコノコでいるのか。面倒だから女装している、って呪いはその程度のものなのか。それなら好きでやっているのと変わらないではないか。というか呪いがなくなった今は本質的に好きでやっているだけであり、都合の良いときは男性として女性に接している以上、例えば女性の更衣室に同じように入るのは呪いが解けた段階では犯罪に近い。こうした基本的な倫理に対する考察が何ら示されていない。
 また、るいにしてもそうだ。何だか軽そうに見えるが、今を大切に生きる、という姿勢はとても格好いい。しかし、その格好良さが未来に約束できないという呪いがなくなった途端になくなってしまうものなのか。

 つまり、総じて登場人物の思いが浅く思える。逆に言えば、呪いの意味が軽すぎる。 あってもなくても同じではないか。尹央輝だけは、昼に陽の光を浴びて笑っているシーンにぐっと来た。彼女の場合こそ、呪いの存在は、養女になったことやグループの長になっていることも含め、かつての状況からの脱出にとって重要なものであったはずだ。何となく、常務は彼女が呪いを失ってもそのまま養女にしているような気もする。そうであるとすると、むしろ、今度は、呪いのない尹央輝として、そのポテンシャルを開花させることが「常務」、父に対しての一応の務めということになるのかも知れない。ということはあるのだが、尹央輝の場合は、やはり陽の光を浴びている姿がとてもよい。呪いが解かれて、本当にうれしそうに見えるのは彼女なのだ。
 逆に言えば、惠は特別として、他のメンバーは呪いが無くなって残念、という感じしか出ていない。この辺が描けていないのは大きな欠陥だ。つまり、先ほど花鶏のところで書いたとおり、呪いという軛がなくなった段階で、何かそのためにできなかった本当にやりたいことに向けて歩き出すことを描くべきなのだ。今の状態は、呪いがなくなって情けない状態になったことだけが描かれている。それがこの世界での客観的現実なのかも知れないが、主観的な状態こそ重要であり、その主観的状態、認識、そしてそれに基づく行動を5年も続ければ運命は変わる。各キャラが呪いとの関係の中で鍛え上げた「自分」を礎として、呪いがなくなった段階からの始まりが描かれるのが楽しみなのだ。例えば、るいは呪いがなくなったのに、全然約束しない、でも、変な身体的能力はなくなったのに、約束したであろう以上の結果を、現在を大切にすることで生み出すとか、そんな感じのシーンを描いて欲しかったのだ。それがないなど、残念でならない。
 もちろん、論語ではないが、この物語に自分の思いや他のゲーマーの思いを重ね、ぶあついものにしていくことは可能と思うし、そうなっているところもあるのだろうが、やはり私は共感できない。

 とは言え、批評空間でも、巷でも、このゲームの評価は、ギャングスタ・リパブリカや「運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ」より遥かに高い。私のような感じ方が少数派ということなのだろう。

このゲームも、18禁要素は不要な感じ。
移植もされているが、カットすればいいだけなので簡単なのではないだろうか。
むしろ、現在だと、同性愛に対する表現について問われるのではないか。オトコノコについて、呪い、という位置付け自体が問題とされそうだ。(その意味では、江口寿史の「ストップ!ひばりくん」はすごい。確かに作中その性癖を批判する者はいるが、それを全部ポジティブな方向にひばりくん自身が自然に変えてしまう。言い寄る男女で人間としてダメな奴は断固拒否、という姿勢は、男女の差とは関係ない。作者に偏見がない、生物的に男性であっても精神として女性であることに全然違和感を持っていない、ということはそういうことなのだ。)

18禁のゲームについては、現在は
1 エロを目的にしたものと、
2 流れの中で18禁の場面のあるもの(必然性やプレーヤーの期待のあるもの)、
3 本来18禁要素は必要ないが大人の事情で18禁になっているもの、
と3つのパターンがあるように思う。

1は論外というか、それはそれで需要があることは分かる。ただ、これは今後どうなっていくかよく分からない。一定の需要はあるのだろうが、あまりにも性的欲求を対象とした産業や映像作品・バーチャル作品が多くなっている昨今、英語で言えばデジタルノベルであるこのジャンルの作品は、中途半端な感じがする。むしろ、文字だけの作品の方がアピールするのではないかと思えるほどだ。

2のパターンについて、私も、恋愛要素が強いゲームで、何も進展がないことが約束されている非18禁も味気ない感じがする。ただ、例えばこの「るいは智を呼ぶ」とか「運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ」については、むしろ非18禁がよかった。考えてみると、ホワイトソフトについて言うと、この作品に限らず、例えばギャングスタ・リパブリカやギャングスタアルカディア、猫撫デストーションや同Exodusも、非18禁の方がよい。そんなことは、制作者にも分かっているのではないか。では、なぜ18禁で販売されるのだろうか。そう考えると、3というジャンルがあるように思える。この「大人の事情」というのがなんなのか(実はないのかも?)、今は考察や調査を深めることができない。また機会を改めたい。