エリアーデの幻想小説について(或いは仕事をせずにゲームをする大人になってからの言い訳)

 私も、本当に忙しく多くのやるべき仕事がある中で、このところ書いているようなゲームをやったり、小説を読んだり、書き物をしたりもしている。

 そんなことをせずに仕事をしていれば、どのくらい多くのことを成し遂げることができたろうか、との思いにも駆られる。

 ただ、私は、若い頃、不遜にも、文学を読まずビジネス書や歴史書を読んでいる大人を内心軽蔑していた。今は勿論そんなことはなくそのような人々も尊敬しているが、当時なぜそんなことを思っており、自身に関しては今も雰囲気として感じているかはあまり考えたことがなかった。

 今日、エリアーデ幻想小説全集1に収められている、沼野充義さんの「「聖」の顕現としての文学」を読んでいて、なるほどと思った引用箇所がいくつかあった。

 まず、ツヴェタン・トドロフの言として「幻想とは、自然の法則しか知らぬ者が、超自然と思える出来事に直面して感じる「ためらい」のことなのである。」(「幻想文学論序説」三好郁郎訳、創元ライブラリ)が引かれている。

 そして、エリアーデの言葉として引かれている次のもの。
「「蛇」の体験(筆者注:エリアーデが「蛇」という小説を執筆したこと。同作品はエリアーデ幻想小説全集1巻に収録されている。)は、私に2つのことを納得させた。
1 理論的活動は、意識的、意図的に文学的活動に影響することはできない。
2 文学的想像の自由な活動は、反対に若干の理論的意味を開示しうる。」

 更に、沼野充義さんの解説。
「さらに、エリアーデの考えによれば、文学作品の解読にも、ヒロエファニー(筆者注:「聖なるもの」の自己開示、というか俗を聖に変容させる弁証法的なプロセス)と同様、「隠されているもの」を開示するプロセスが伴うという。つまり、小説が描くのは普通、具体的なディテールや歴史的な状況の中に置かれた登場人物やエピソードだが、そこに「普遍的で模範的な意味」「人間的諸価値」を探り、理解していくことは「宗教現象の意味を再発見していくことに等しい」のである。
 このような言い方をしてしまえば、これは特にエリアーデの作品に限らず、優れた文学全般に当てはまる一般論になってしまうが、エリアーデの小説の場合はやはり、宗教学者エリアーデが探っていた「聖なるもの」がー学問的ディスコースを迂回し、寄り直感的な形をとりながらー顕現していることを感じざるを得ない。だからエリアーデ幻想小説の多くにおいては、ツヴェタン・トドロフ幻想文学論の鍵となる決定不可能な「ためらい」がやはり認められるとはいえ、最終的には、いかなる合理的説明も越えた驚異の輝きがほの見えてきて、ためらいの空間を揚棄してしまう。」

 このように見てくると、聖なるものを求めている場合、一般的にはビジネス書、学術書を読んだり書いたりするだけでは十分ではない理由が分かる。(とは言え、優れたビジネス書、学術書は、興味深く分かり易い表現で書いてある、ということとは別の意味で、文学・宗教書に近い、絶対者の存在を感じさせるものがあるのも事実である。)

 一方、聖なるものが人間に開示されるのは、ビジネスの現場や研究での活動や人間関係においてであると思う。

 つまり、エリアーデは小説を書き、それを自ら再読し解釈することで、研究の止揚を行っていたが、小説を書くことのできない私としては、デジタルノベルを含む小説を読むことにより、聖なるものに触れ、その体験とある意味での悟りを持って現実の仕事の場に戻り、戦いを続け、そこにおいて聖なるものを自ら体験・実践し、ビジネスの変革や研究の飛躍を図る、ということになる。或いは、人間関係の改善と表現できるようなものでもよいか。

 私の場合でしかないが、聖なるものを意識しないと、芯がぶれる。上司の顔色をうかがい、出世のみを目指す、上に諂い、下に当たり、自らの権威を維持するために理不尽を押し付けるといった行為は、聖なるものから遠ざかっていることを示しているように思われる。

【いやあ、大人になって、仕事をさぼってゲームをやる言い訳を考えるのも、しみじみするものがある。また、沼野さんも、スタニスワム・レムに凝っていた頃に知り、単なるSF好きのおじさんかと今日まで思っていた。東大の教授であったとは大変失礼しました。】

エリアーデ幻想小説全集 (作品社): 2005|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

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