抜き書きなど

背教者ユリアヌスからの抜き書きなど。

p.184
兄ガルスのユリアヌスへの言葉。
「・・・だが、おれはつねに自分が皇族の一員であり、神々につながる人間であることは忘れなかった。そうした高貴さを、おれは、片時も忘れなかった。おれは明日にもアンティオキアに出かけるつもりだ。万一のことがあれば、これでお前と永遠に会えなくなる。だが、もしそうであっても、お前にはおれが王者として死んだことを覚えておいてもらいたい。おれは軽率な男かも知れぬ。だが、王者の高貴さだけは知っていた。そういう兄として記憶してもらいたいのだ。」

これについては、http://d.hatena.ne.jp/pakira_s/20080321 に少し書きました。

p.188
エデシウスのユリアヌスへの言葉。
「いいかね、どんなときにも深刻がってはいけない。学問とは快活な心を養うためにある。働いている精神はつねに快活なものだ。ユリアヌス、忘れてはいけない。ギリシアの精神は晴朗な、快活な精神なのだ。」

命を賭けた清明さ、というべきか。

p.256
リバニウスの言葉。
「人間の手になるもので無謬なるものがありえようか。否である。我々が唯一無二と信じうる真理でさえ、それは人の手になるものである以上、無謬ではありえない。諸君は等であろう。では、真理とは、人間が拠って立ちうるものになりえないのか、と。たしかに一見すれば、謬りを含んだ真理とは、語の矛盾以外の何物でもない。だが、それが真理として究められた以上、あくまで真理性を主張することができる。否、あえてその真理性を擁護しなければならぬ。だが、諸君、同時に諸君はその真理が、さらに一段と高い真理に進みうる道を、そこに開いておかねばならぬ。実にこの道こそ、真理のなかにおける懐疑である。。。」

学問においても、仕事や生活においても、このような態度こそ大切に思われます。
また、更に高みを求めること、真理とは動的なものであること、安住はできないことを改めて思います。

p.294
ユリアヌスの心の中での言葉。
「。。。兄は統治がうまくゆけば、それが正義だという。だが、キリスト教徒を道具として使って統治がうまくいったとしても、それは果たして正義なのだろうか。父ユリウスを殺害して教会の勢力を拡げえたとしても、それが一体正義と呼べるのだろうか。兄はそれが正義だと主張する。現実がすべてだと言う。だが、どう考えても、大司教エウセビウスの平然たる顔を、正義と呼ぶことはできぬ。キリスト教徒を道具として利用することも、信仰と何の関係もない以上、正義と呼ぶことはできぬ。いや、兄が何と言おうと、正義を実現する政治はあるはずだ。でなければ、人間がいままで考えてきたことは、すべて無駄になる。万一、自分が統治者になるようなことがあれば、政治がうまくゆくことをただ単純に正義だなどとは絶対に考えまい。いや、あくまで正義を実現するための政治を行うのだ。おそらくそんな機会はないだろうし、統治などという宮廷の仕事は自分にはまるで向いていない。だが、それでも、万一そんなことにでもなれば、巧みな政治を正義と考え、手段を選ばぬような態度だけは、絶対にとらぬようにするのだ。。。。」
 彼はそう考えた。しかしそれを兄に言うことはできなかった。兄がこわかったからではなく、その種のことは、それが言葉になった途端、浅薄な、とるに足らぬものになるような気がしたからである。ユリアヌスは、それが何か意味を持つものであるとしたら、ただ黙ってそれを実現するときであろうと思った。

政治について私も衝撃を受けたお話がある。既に80歳も越えておられる方だが、
「政治から遠ざかっていてはいけない。世の中を変え、世界を平和に、住みよいものにするために政治をちゃんと行っていく必要がある。」
と言っておられた。http://d.hatena.ne.jp/pakira_s/20061214 で紹介した、ルソン島から帰られた方だ。
「政(まつりごと)」は本来そういうものなのだ。今は、政治や公というと引いてしまう人が多いと聞く。しかし、世の中をよくしていくために実際に機能しているものが「政治」というものであるのなら、「政」や「公」にこそ皆が力を尽くすべきなのだろう。そして、それを、遂行過程も含めて、「正義」に適うものとしていく。
なんと見果てぬ夢のように見えることか。
しかし、私はあきらめていない。実は容易なことではないか。
むしろ、なぜ、自分の心の奥の声に耳を傾けないのだろうか、と不思議なくらいではないか。
と、語る前に結果を出せ、ということが上の文章の意味か。
なかなかやってくれるではないか。