霊操と内観

先日、大阪に行った際、泊まったホテルに、聖書、仏典と並んで「内観」の本があった。少し読んでみたが、霊操と比較をしてみたくなった。
勿論、霊操は「神」に会いキリスト者となるためのイエズス会の修練の方法であり、内観は精神療法であり非行少年の立ち直りなどにも使われているものであって、違うものではある。
期間的にも、集中的に行う場合には、霊操が約30日、内観が1週間とされており、霊操の方が長い。ある意味では、霊操の第1週が内観に当たると言えるかもしれない。
内観においては、母から始まって身近な人からしてもらったこととそれに対して自分がどうであったか、そこから自分に対する反省、そして感謝の念という高揚に至るように思われる。
(内観のやり方などはこちら http://www.nara-naikan.jp/naikan/whats.html
(霊操の内容はこちら http://pweb.sophia.ac.jp/~s-yamaok/se.htm
一方、霊操の方は、罪の自覚から始まる。
まず面白いと思うのは、実は少なくとも現代の日本においては、何を「罪」とするかの規範が揺らいでいるので「罪を思え」と言われても機能しないということがあるのではないか、という点だ。そのため、まず多くの人々が共有している「自分がしてもらったことには返す」という、ある意味で実利的な概念に訴え、またその「してくれる」行為やその集合から立ち現れる大きな存在を認識することによる自らの卑小さの認識とそれ故の感謝の情を抱かせる、という方法をとるのだろう。(なぜ規範が失われているか、更には人々が共有しているものも失われつつあるか、その中でどのような規範を定立し対応していくかについては考えるべきことであるが、ここではふれない。)
ここまでで、一般的に生きていくためには十分であろう。また、ここで止めておくのが「療法」であれば妥当なところだと思う。また、私自身もキリスト者ではない。
では、霊操の2週目は何をするのか。これは、自分の生き方の定立といってもよいかもしれない。常に高く、神の視点から見て物事を判断する訓練を行う(つまり現世的利益を離れた判断をする。この前提となる精神状況は、第1週で得られているはずである)。さらに、霊操の第3週では、十字架に架けられるキリストの苦難を追体験する。ここではひたすら苦しむ。楽しみ(清らかな喜びを含む)を想起させることは一切考えない。自分を無にする、ということに通じるかもしれない。第4週では、復活を思い、無にした自分の中に神を迎える。神の愛を受け、自らが愛の泉となる。
このように見てくると、内観では、霊操において第2週以降に行うことを、内観を行った者が自らの生活の中で、自らの判断で行うことに委ねることになる。多くの内観を終えた人々は、謙虚になりこれまでよりも広く高いところから自らの生活を見ることができるようになっているはずであるから。ある意味では、霊操のその後の課程は、これらをキリスト教の神と結びつける過程なのかもしれない。
また、霊操も内観も、一回でよいというものではなく、節目節目に繰り返し行うものであろう。また、日々の暮らしの中で、日々、或いは時々行っていくものかもしれない。
なお、岩波文庫の「霊操」ISBN:4003382013な解説があり(最初は先入観なしに古典にふれるという意味で、解題を含む解説を飛ばして読むことを薦めたい)、それによれば禅にも通じるものがあるという。

霊操 (岩波文庫)

霊操 (岩波文庫)