セリーヌの作品10 虫けらどもをひねりつぶせ

セリーヌの作品〈第10巻〉評論―虫けらどもをひねりつぶせ

セリーヌの作品〈第10巻〉評論―虫けらどもをひねりつぶせ


こんな題は好きではないし、フランスでは今でも出版差し止めであり、英語にも翻訳されていないそうです。1937年に公刊されたセリーヌのこの本は、反ユダヤ主義の書物として有名であり、国際会議でも、hate-crimeについての議論があるくらいですから仕方ないのかもしれません。
日本では、2003年5月に国書刊行会から第1版が出版されました。これは、むしろ日本では反ユダヤ主義がないため、それに縛られずこの本を見ることが出来るためだと思います。
ただ、そうだとしても、セリーヌの本は決して読みやすいものではなく、そんなに売れるとも思えないので、この出版社もよくセリーヌの作品集の翻訳を出してくれたと思います。
私がセリーヌを好きなのは、やさしい人だからです。
本当に、読んでいると切なくなります。
かつてよいと思って読んでいたアンドレ・ジイドは薄っぺらにみえるこの頃ですが、この「汚れた」「世に憎悪を放っている」セリーヌのやさしさが胸に迫ります。

それにしても、セリーヌがバレエファンだったとは。。。。
この本のバレエの脚本を読んで。妖精に恋してもその気持ちは伝わらない、と言われるけれど、妖精も人間に恋しているのかも知れず、そしてその気持ちが人間に伝わらないのかもしれない。お互いの思いが伝わらない、でもお互いに恋している。そんな風か。


2004/08/15 今日は Bagatelles pour Un Massacre を読み進む。
透徹した視線が辛いが、インチキがないので読んでいていて無用な引っかかりはない。しかし、確かにユダヤ人の人が読んだら不愉快に思うだろう。親しいユダヤの人、イスラエルの人の気持ちを思う。また、この書物について語るためには、冷徹な精神と知性が必要だ。自分でそうあるように努力するだけではなく、世界に向けてそうあることを示さなくてはならない。実存する対象を憎悪の対象とする書物は、特別の存在だ。自らがどのように存在し、生活し、行動しているかを明らかにする必要がある。すなわち、自らはそうした憎悪等に関与していない、ということを示す必要がある。セリーヌを読むということは、謂わば自分との戦いを賭けて行う行為だということか。セリーヌ自身は、自らの真情、必死で戦争を止めたいという気持ちを伝えようと、むしろ露悪的に、扇動的な表現として「ユダヤ人」という言葉を使った。その代償の高価なことは彼の生涯が示している。この本を訳した片山正樹さんは、1926年生まれというから、今年は68歳になるのだろうか。どのような方か、黄泉の生田耕作さんとの対話が洒落ている。お盆に読むにはふさわしい、ということか。