朝の楽しみ

今日は朝の楽しみですが、朝は、枕草子を1,2ページ読むようにしていました。
[冬はつとめて」というからではないのですが、そんな読み方でも、当然ながらいつか読み終わる時は来るのだな、と思いました。

この日記の中でも、今検索してみると、何度か枕草子にはふれていますが、
全体的な感想としては、清少納言の美醜に対する感覚を大切にする態度が印象深い、ということでしょうか。また、男女関係なども、いろいろな形式は当時もあり、それが「忍んで来る」といった表現になっているところもあるように思いますが、気持ちの赴くところに素直に従っている感じがします。
清少納言は生活に苦労することはなかったようなので、そのような感覚が鍛え上げられたものかは疑問ですし、男女関係も、心の中の大切なものを共有しているのならば、いろいろなことがありながら、それを乗り越えて一人の人を大事にしていく、ということに価値があるようにも思います。

例えば、身分の低い者が火事で焼け出されたのを皆でからかっている様などは、あまり品のいいものではありませんし、おそらく中宮定子の批判の言葉を載せていることからも清少納言自身ある程度認識しながら、女房集団の雰囲気を伝えるために書き残したとも思えます。
感覚の冴え、というものは大切にすべきと思いますが、その中で読みづらいのは、やはり身分の低い人を馬鹿にしているところです。当時、社会的な身分が低くても清少納言より人格も能力も優れた人はたくさんいたであろうと思います。それを、身分が低い層、と(少なくとも表現上は)一群として馬鹿にしている様は見苦しい。「時代が違う」という言い方をすることは容易ですが、様々な視点からの考え方ができるか、ということはいつの時代にも事態を少しでも改善しようとする人にとっては重要なことと思います。
私自身、そうしたcategorizeによるコメント(「男だから」とか「女だから」とかといった言い方も場合によっては該当すると思います。)なりをしていないか、よく考えていかないといけないな、と思わされました。