文鳥

ふと手近にあった夏目漱石の「文鳥」を読む。
以下はネタバレなので、「文鳥」を読んでいない方は、手近にある文鳥を読んでからお読みください。


文鳥も、随分前に読んで、なんとなくよい印象を持っていたのだが、今回読み直してみて、すっかり筋を忘れていたことがよくわかった。
軽妙な筆致で始まる随想風の読み物だが、なかなかよかった。
手近にあったのは新潮文庫でしたが、三好行雄さんが解説。
その解説の中で「文鳥が家人の不注意で死んでしまうまでを描いた」といった表現をされていました。
これはひどい表現と思います。
私は実はあまり三好行雄さんのことは知りませんし、著名な文学評論家で東大文学部の教授であったことくらいの知識しかありません。
そのような者からすると、おそらく立派な人であったろう三好行雄さんの、ものの見方や考え方、文学に対する理解について、この10文字程度の表現だけで疑問を感じるようになってしまいます。
言葉というのは本当に恐ろしいものと改めて思います。


なぜなら、文鳥は、「文鳥」という小説の語り手である「漱石」が「死なせた」のであって、作品の中でも、作者自身、鳥を買ってきてくれた「三重吉」に、主人公の「漱石」が、「家人の不注意で死んでしまった」と葉書を出したことに対し、「返事の中で三重吉が一言も家人を責めるような言葉を書いていなかった」と書いて作品を終えている。
つまり、自分が死なせたことを知っていながらそれを他人のせいにしている醜く不条理な「漱石」の姿を描くことが重要なのであり、更に死んでしまった文鳥と作中時折出てくる「美しい人」を重ね合わせ、その人に対する「他愛のない」悪戯やその人が婚約をして去っていくことなどを思いながら、読者を明るい日の差す冬の縁側に座ったままに置き去りにすることが作者の意図と思う。


このような、自らの過ちを自分の地位を利用して他人のせいにし、それを自分でわかっているだけに、余計攻撃的になるような人間の醜さは読んでいて不愉快ではあるが、それでは自らの生活はどうかと言えば、そのまま描けばより醜い、目を掩うばかりのものになることを改めて思う。
人間の不条理を背負いながら、それを突き抜けて、できれば大いなる存在に触れるよう歩みを進めることが、現実に生きる者の務めと思うし、文学の挑戦はそれを文字に留めることだろう。またリア王が読みたくなってきた。

文鳥夢十夜
夏目漱石 著
新潮文庫

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)