座禅

今は家事のついでに、正法眼蔵を読んでいます。と書くと、何だか不謹慎感がありますね。
座禅により悟りを得るべし、と書かれています。
私は少林寺拳法をやっていて、それはまた達磨大師が悟りに至る方法として拳法を用いていた、と教えています。確かに、中国では拳法と宗教が結びついていますね。
自分の経験として、運動をきちんとやることは精神を整えることに効用があるように思います。
ずっと座っているだけ、というのも何だか妙な感じがしますが、これは、教えを説いている対象によるのではないかと思います。
経を学し、また念仏を唱えることは、むしろできて当然であり、道元がここで説いているのは、そうした一定レベルに到達し、かつそうしたことを常に一定水準では継続して修行している者が、如何に思考と精神を深めるかの姿勢を説いている、という感じがします。
私のように、迷いの中にいる者には、まず念仏や適当な運動、不断の勉強などの形も重要に思えます。
(2007/03/04記)