記号論

今更ながら、ウンベルト・エーコ記号論を読んでいます。

記号論 (1) (同時代ライブラリー (270))

記号論 (1) (同時代ライブラリー (270))

今日は、引用。

真の意味で「科学的」であるということは、その場面で可能な以上に「科学的」ぶらないことであるということが多い。「人間」科学においては、多くの科学的研究に共通の「イデオロギー的誤謬」、つまり、「客観的」、「中立的」になりえたから自分の研究法はイデオロギー的ではない、と信じ込むということがよく認められる。私自身の立場も、すべての研究は「動機づけられている」という懐疑的な意見を抱くという点で同じである。理論的研究も社会的慣行の一つの形である。何かを知りたい人は、誰でも何かをしたいからそれを知りたいと思うのである。もし、何かを知りたいという目的が単に「知る」ということであり、それを「する」ことではない、などと主張する人がいれば、その人は何もしないためにそれを知りたがっているのであり、実は人目につかないやり方で何かをするということ、つまり、世界を今のままに(あるいは、自分の研究法でそうあるべきだと思っているような姿に)残しておく、ということをしているのである。
他の事情が同じならば、自分の動機を隠さずに示し、読者が「科学的」な幻想を抱かないようにするのが「科学的」な態度であると私は思う。もし記号論が一つの理論であるのなら、それは、記号現象に絶えず批判的な立場からの介入を許すような理論でなくてはならない。人間は話すのであるから、なぜ、そしてまたどのように人びとが話すかを説明することによって、将来の話し方を規定するのに役立つはずである。とにかく、私自身の話し方もそれによって規定されるということはとうてい否定できるものではない。

微笑を禁じ得ないこの書きぶりは、まだ私には見習う資格もありませんが、 Rose of the namesのウィリアム修道士を思わせて一種の魅力があります。