解釈項

これも少しずつ読み進んでいたエーコ記号論Ⅰ」を読了。
面白いと思った概念に「解釈項」がある。以下、引用によってメモ。
なんとなく、バベルの塔を作ろうとした人々を思わせるような記述ではあるが、聖なるものを称えるための行為とも言えるのか。
「私は記号というものを、すでに成立している社会的慣習に基づいて何か他のものの代わりをするものと解しうるすべてのものと定義することを提案したい。」(p.25)
「解釈項という概念は多くの学者を驚かすに足りるものであったし、そのため、それを誤解(つまり、解釈項=メッセージの解釈者ないしは受信者)することによって追放しようとした人のあたことも不思議ではない。解釈項という概念は、意味作用の理論を指示物についての形而上学から、それを文化現象についての厳密な学問にするものなのである。」(p.120)
その意味では、解釈項とは神のような存在で、学者達は自分が仏陀の手のひらの中を走り回っていたことに気づいた孫悟空のような気持ちになったということであろうか。
「解釈項とは、解釈者のことではない」(p.117)
「解釈項とは同一の「対象」と結びつけられる別な表象‥‥言いかえれば、記号の解釈項とは何であるかを明らかにしようとすれば、別の記号でそれを名指すことが必要になろうし、その記号はまた別の記号で名指しされるといったふうに続いて行くのである。この点で、無限の記号現象という過程が始まる。これは、逆説的に思えるかも知れないが、完全に自らの手段によってだけで自らを検証しうるような記号体系の基礎を保証する唯一のものなのである。」(p.118)
「解釈項というのはこのように広い範疇であるので、全く役に立たないということもありうるし、また、それはいかなる記号論的行為をも規定できるものであるから、分析していくと結局は全く同意語反復的なものになることも考えられる。しかし、そのように捉えどころがないところがその強みでもあるし、その理論的純粋さの条件なのである。
その範疇を実り豊かなものにしているのは、まさにその内容が豊かであるということである。なぜなら、(コミュニケーションはもとより)意味作用は絶えず記号を他の記号ないしは記号連続と関係づけるものであり、そのような転移を通じて文化的単位が漸近的に限定されるということをわれわれに示してくれるからである。‥‥このようにすれば文化的単位というものを記号論的存在物以外の何かによって置きかえるというような必要はないし、かにかプラトニックな心理的ないし物理的存在物によって説明しなくてはならない必要もない。記号現象はそれ自体をそれ自体によって説明する。‥‥
文化的単位は物理的に我々の手の中にあると言っても差し支えなかろう。‥‥
文化的単位は、社会においてコードがコードと、記号媒体が意味と、表現が内容と等価に関係づけられるという確かな事実を正当化するために必要とされる記号論的な前提である。素人にとっては目に見えないが用いるものであり、一方、記号論にとっては用いるのではなくて見えるものなのである。この意味では記号論は、この(おもてには表されなくとも)文化的に行使される能力についての学問に他ならない。」(pp.123-124)