無常迅速

正法眼藏隨聞記を少しずつ読んでいますが、その中に面白いお話がありました。
ある人が、参禅を始めるに当たり、家の財寶を持ち出して海に沈めようとしたところ、周囲の人が、
「そんなことをするくらいなら、貧しい人に施したり、仏教のために遣ったりしたらどうですか。」
と止めたところ、
「私は、自分に害になると思って財寶を捨てようと思っている。自分に害になるようなものをどうして他の人にあげるようなことができようか。」
と言って構わず海に捨ててしまった、とのことです。
この他にも、貧であるべし、というのは随所に書いてあります。
この辺はキリスト教でも同様ですね。
お金の話を少し前に書きましたが、「金持ち父さん」のロバート・キヨサキさんも、「お金のために働くのがよくない」と言っています。
お金を捨てることに価値があるのではなく、お金も含め、親しい人への感情も含め、更に言えば名誉も道理も含め、あらゆることに執着することが問題なのだと思います。貧であることにも、それにこだわっているのなら、財寶にこだわるのと同様に問題だ、ということだろうと思います。
凡俗の場合には、とりあえず、お金のことを考えずに自分の好きなことができるくらいの状況になって、それから捨てる、ということになるのではないかと思います。そうしないと、お金を得ようと卑しくなる、或いはやりたいことを心穏やかにやることができなくなる、ということかと思います。とすれば、お金を得るために、法に触れないまでも自分の心に反するようなことをしては、本末転倒、ということでしょうか。


とは言え、これは一種の便法で、更に言えば、無常迅速を思うとき、畢竟お金も他のこともつまらぬことであることは間違いないと思います。聖書の中の美しい言葉にある「野の花の一輪も、最盛期のソロモン王よりも美しく装わせてくれる」神であれば、日々の暮らしに思いわずらうことなど何もない、そのことを私も、もう知っているのかもしれません。大切なものとしては、無常を思う契機となるもの、つまり、自分自身を含め心から愛するもの、ということかと思います。それが「今」の次の瞬間に無惨に失われること、それが今世界のどこかで必ず起こっていること、そこに自分の身を置きかえてみること、それによって、本当にやるべきことが見つかるのかもしれません。葉隠に言う、常に死んでいるとはそういうことかと思います。