日本キリスト教団松原教会

pakira_s2007-01-22

私の住まいの近くの教会。
日曜日の10時30分から主礼拝があるとのこと。
今日、どこかの新聞で米国のメガチャーチの話が出ていて、イスラエルを無条件で支持する傾向のことが出ていた。
キリスト教にも毀誉褒貶があるが、マイスター・エックハルトのような人のことを考えると、自分として、その中のよきものに目を向けることが謙虚になるための道ともなることを思う。


私は、しかしキリスト教の本ばかり読んでいるわけではなく、仏教の本も同じくらい読んでいる。
今は、ブッダ最後の旅というのを読んでいる。
その中に、組織の滅びない要諦として、皆がよく集まり、議論することをあげている。


本当に若かった私に、厳しく暖かく仕事を教えてくれた或る人は、私の今属する組織の人ではなかった。
その人からは、仕事のやり方も勿論だが、仕事に向かう厳しい姿勢に随分教えられた。
その人は、私利を離れて熱望していたポストに周囲から推されて着任する寸前に脳梗塞で倒れられた。
その、私の師とも仰ぐ人が本当に悲憤慷慨していたのは、先に郵政民営化を争点に自民党が大勝したときの選挙だった。結果ではなく、異論を持つ人を切るようにして追い立て、憎悪を掻き立てるような行為に対してだった。
恥ずかしながら、私も当時「刺客」などといった劇場のような言葉に関心が行き、師の怒りが十分理解できなかった。ただ、その後、何となくおかしな気がしてきたところはある。
今年のその人の年賀状にも、血を吐くような、叫びのような言葉があった。


私は、今、人々の求めているのは、お互いが向き合って殴り合うことではなく、星を仰ぎ見て、それに向かって、方法は違っても歩みを共に進めることだと思っている。
そのような、星を示し、共に歩んでいる人には限りない優しい眼差しを向けられるような人がリーダーなのではないかと思う。リーダーとは、社会の各層にいてキリストのように人々の足を洗っているものと思うが、私は僭越ながらそんな星を共に見上げているようなリーダーでありたいといつも思っている。でも、私は、それを思うとき、自分の傍らを見る眼差しの中には、病と共にある師のことやその他のことを思って、哀しみが入ってしまうように思う。