ヒルベルという子がいた

先日、古本屋さんで買ってきた本。


ヒルベルという子がいた (現代の翻訳文学( 3))

ヒルベルという子がいた (現代の翻訳文学( 3))



感想に代えて、以前の日記に少し書き足したものをコピペしておきます。


一昨年、渋谷駅で本を読みながら電車を待っていると、向こうから、少し叫ぶような、人を脅かすような声を上げながら来る人がいた。私は何故かそちらには顔を向けず、本を読み続けながら、早く私の後ろを通り過ぎていくことを祈っていた。
 ところが、その人は、私の後ろに並んだのだった。そして、時折、驚かすような、脅かすような声を上げ続けている。しかし、私はそれでも、なぜだか自分でも分からないが振り返ることをしなかった。
 やがて電車が入ってくる。私は降りる人を待ってから中に乗り込み、左側すぐの座席に座る。声を上げていた人は、右側の、車両の端、普通は優先席になっているところに座ったようだった。座ってからも、時折声を上げている。
 次の駅で、小学生のお子さんも二人いる家族連れが乗ってきた。小学生のお子さんは、声を聞いて、少し怖そうにその人を見たが、おそらくその人の見かけは恐ろしいものではなかったのだろう、離れて逃げていくこともなく、その場にいて、少し両親の方に身を寄せていた。
 それから2つ目の駅で私は降りる。
 結局、声を上げている人を見ることはなかった。


 定かではないけれど、あの声を上げていた人は、何かの病気で突然身体が震え、脅すような声が出てしまうのではないかと思った。私は、何故、あの人が私の後ろに並んだのか不思議だったけれど、それは、ことによると私がその人を、おそらくはその時ホームにいた人々の中で、唯一怖そうな目で見なかったからかもしれない。
 私は、その人の日々の暮らしを思い、幸を祈り、また目を慎むことを思った。


 その後、お子さんが奇声を発する障害を持っているお母様の手記を読む機会があった。小さい頃、夜、家にいてもお子さんは奇声を発する。アパートの周囲の皆さんから苦情が出る。夫が自動車を運転し、お母さんは、その子を抱き、そしてもう一人のお子さんも車に乗せて、夜の街を当てもなく走り回っていたということだった。


 私は、想いをどこまで遙かに駈けさせ、深めることができるだろうか。その導きによって歩むことができるだろうか。