淋しい眼差し

今日は、昔からお世話になっている方から私の会社志望の大学生の人を紹介され、いろいろお話をしてきました。でも、まだ大学2年生で、今はこんなに早くから努力するのだな、と感心しました。最近は「オンリーワン」というのが流行言葉なのでしょうか。別にその学生さんが言っていたのではなく、ふと耳にする機会がある、というだけですが。私は、自分しかできないことはやっていこうと思いますが、そうでなければ静かに世の中から身を引いていきたいと思っています。そして、人はみなその人しかできないことをやっているように思います。何もやらない人はいるのでしょうし、私自身もいろいろな事情からそうした状態になることもあります。また、仕事や仕事外の活動それぞれ違うと思います。

私はクリスチャンでもありませんが、新訳聖書を読むことはあります。
かつては、高校生の頃は復活するラザロの姿に、その後、十字架に架けられる前のイエスの苦悩する姿に深い印象を受けました。それから、野の花の美しさをソロモンの栄華よりも高く上げ「明日のことは煩うな、今日は今日の苦しみだけで十分である」という言葉の優しさをしみじみ感じました。今もそれらの箇所は好きですが、それに加え、人々が「この罪の女をどうするのか」と聞いたときに、何も言わずうつむいて地面に何事かを書いていたイエスの姿の寂しさに打たれます。何度も聞かれ、やっと「自分も罪のない人からこの女の人に石を投げなさい」と言い、一人も石を投げる者なく皆去っていき、女と二人だけになったとき、顔を上げる。イエスは女性に「許す」とかは言わない。「誰もいなくなったのか」「はい、だれも」「私も石は投げない。」私が思うのは、顔を上げたときのイエスの哀しく淋しい眼差しを私も持っていたい、ということでしょうか。