永遠に許されない罪

以前、岩波文庫版の「天路歴程」を読んでいて、「永遠に許されない罪」という存在があるのを知った。新約聖書では、マタイによる福音書12章31、マルコによる福音書3章29、ルカによる福音書12章10に、聖霊を汚す者は永遠に許さない、との意の表現が見られる。
当時も、本当に恐ろしいことと思った。
しかし、殆どあらゆる罪は許されるのに、永遠に許されない「聖霊を汚す」という罪は、一体どういう罪なのか、とずっと不思議に思っていた。
そもそも神を冒涜する、キリストを冒涜する、というのなら分かりやすいが、凡そ「聖霊」というもの自体何だか分からないし、増してその何が何だか分からないものを汚すとなると、どのような行為がそれに当たるのかさっぱり分からない。
しかも、その罪を犯すと永遠に許されない。
これではまるで落とし穴のようなものではないか。
最近、「悪」について考えていて、この永年の疑問に自分なりの答が見つかったように思えた。

天路歴程 正篇

天路歴程 正篇

実は、もう一つ、高校生の頃読んだ本の中でずっと気にかかっていたことがある。
それは、河合隼雄さんという方の書かれた「ユング心理学入門」という本の中だった。はっきりとは覚えていないのだが、無意識の中に存在する自分の行動を規定しているものと向き合う、というお話の中で「そのようなことをすると、人格崩壊を起こしてしまう危険のある場合にはそのようなことは避ける」という言葉があった。
これも、私の中で恐ろしい言葉としてずっと記憶に残っていた。
それと向き合うと自分が崩壊してしまうような存在。そんなものが自分の中にあり得るのだろうか。
ユング心理学入門

ユング心理学入門



比較的最近(といっても、もう数年前になるが)読んだ本で「平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学 」という本がある。確か、当時もAmazonで送料より安いような値段で購入した記憶がある。今、別のところに置いていることもあり、手元に置いておこうかな、と思ってAmazonで検索してみた。
値段は、中古だと300円くらいからと相変わらず入手しやすい状況なのだが、驚いたのは書評。数が47というのも私としてはあまり見たことがないくらい多かった。しかし、数はともかく、その内容で驚いたものがある。私が「想定外」であった書評は概ね次の3類型である。
第一は、「被害者を救う内容」という題名のレビューがあるが、このレビューをはじめとする、特に精神的な虐待を受けてきた人がこの本を読んで救われるような思いをした、というもの。このタイプのレビューによる評価は高いものから中間くらいのものまで、それなりに広がりがある。私は全くそのような視点には気づかなかった。
第二は、極めて低い評価のレビュー。全面的な否定。キリスト教的善悪二分論で「悪」を一方的に非難している、というような表現はあるが、殆ど生理的にこの本が気に入らなかったことが感じられる。
第三は、先の批判とも重なるが、キリスト教的に悪人を非難しており問題である、というもの。評価としては高いところからやや低いところまで様々。
平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学



第三についてだが、私が見たところ、著者がわざわざ自らをキリスト教徒と宣言していることはある意味では良心的なことと思う。(例えば「修復的司法とは何か」という本を書いているハワード・ゼアさんも、自らがキリスト教徒であることを宣明している。)私が見たところ、決して宗教的な立場から書いている訳でもなく、まして善悪二分論などでは書いていない。しかし、私も最近とみに思うのだが、人間にとって大切なのは、大いなる存在の認識とそれに対する謙虚さではないかと思っている。それは、宗教というようなものではなく、お天道様や道端の道祖神の世界でもある。そして、特に心理学や悪、犯罪について、本当の意味での回復や更正について考えていると、そのような存在について考えざるを得ないように思う。アルコールや薬物依存症の12ステップでいう higher power だろうか。学問の世界において、このような存在の扱いが誠に難しい。私自身、何度も書いていて言及したくなるが、何とか他の表現に言い換えている。
しかし、それはある意味で欺瞞でもある。むしろ、自分はそうした大いなる存在を何よりも大切に思っており、自分の行動の根底にあるものとして意識している、ということを表明することが正しいことかも知れない、といつも思う。この本を書いたスコット・ペックさんは、そのような認識として「キリスト教徒である」と言っているように思われる。

従って、私が見たところ、この本では、登場している人々を悪人として指弾しているようには感じられないのだ。
人間としての悪とは、自らを偽ること、すなわち嘘をつくことであり、それが習慣化して自らの周囲に「素晴らしいマシン」として「善」「社会性」のようなバリアを張ってしまっている人々のことを「平気でうそをつく人たち」と言っている。
つまり、著者は私からは二分論によって悪人を断罪しているようには見えず、行為をその人から切り離し、しかも問題視しているのは、自らを偽ることのように思える。しかし、問題なのは、こうした行為を非難されると、この行為が習慣化している人には、自分という人間自体が非難されているように思えるらしいことなのだ。


ここで、聖霊を汚す罪に戻りたいと思う。
私は、聖霊とは、自分自身の思い、真実であると思う。魂、と言い換えてもいいと思う。
そして、聖霊を汚す、とは、自ら思う罪を犯したとき、それと向き合い、再び罪から離れようとする或いは対決することを避けることを続け、ついにはその罪と一体化し、自分自身・自らの魂、即ち聖霊が極小化し閉じ込められてしまったことをいうのではないかと思う。
このようになってしまえば、河合先生が言われるように分析家も身を引き、またペック氏が手を差し伸べようとして拒絶されたように、救われることはない。そして、その欺瞞から恐怖を更に他に広げ、伝えていく。周囲ができることは、第一類型のレビューにあったように、相手の装甲である「マシーン」を貫いて、相手がそのような存在であると認識し、そのようなものとして対応するということだ。
自らを偽り、自らの感情の痛みを知ろうとしない者に、他の者の痛みを理解することを求めることはできない。
シャーリーンのように、若くしてそのような状態になってしまったことの痛ましさ。そして、シャーリーンは自らも危機を感じ、ペック氏を訪れていたのについには離れて言ってしまった。ペック氏の、シャーリーンを永遠の罪から救えなかった、正に痛恨の記録であり、こうした記録を晒すことがペック氏の勇気でもあると思う。
私は、河合先生が、ご自分も年を重ね経験を積み、このような罪から人々を救うことができるような存在になられていたら素晴らしいことと思う。


(補足)
先日、アルコール依存症の専門家の宗先生のお話を聞く機会があった。
http://so-clinic.net/
そのお話のなかで、相手に拒絶されたり、なにかうまくいかないことがあると、それが自分自身全体を拒絶されたように反応してしまう人のお話を聞いた。そして、それがアルコール依存症につながるとのお話もあった。
(補足2) 20110724
中井久夫さんの本を読んでいると、患者のあまり深い所まで明らかにし、秘密を全て暴いてしまうのはよくない、と書いている。ただ、これは、河合隼雄先生の言われているものとは少々違うものであるように思う。本人もうすうす分かっていて、謂わば意識的に秘密としている、と言うところだろうか。河合先生の言及しているものと重なる場合も勿論あろう。
自らに嘘をつく、魂に嘘をつく、意識的に神を汚すことについては、グレアム・グリーンの小説を思い出す。
http://d.hatena.ne.jp/pakira_s/20110710#p1
意識的に神を汚す、と言うこと自体、矛盾であるようにも思える。