Romantic

Landsdaleの証言の続き。

Our Impression was that that interest was more romantic than otherwise and it is the sole instance that I know of.

これは、追及側が「共産主義者」だとされる女性とOppenheimerが一夜を共にしたことについて不適切ではないか、との質問をした際の答。
また、いくつかのSecurityに関する質問について、Oppenheimerが弟、妻、親しい友人に関して真実を話さなかったことについて、「不適切ではないか」と聞かれて「『そのとおり』と答えるのがfairなのかもしれない。しかし、私の答えは『否』だ。我々の使命は、国家の安全保障を確保しながら、国を守るために有能な人材に、その欠点ではなくその能力を発揮してもらうことにある。」と答えている。人間には誰しも弱いところがあり、嘘をつくこともある、という、当たり前のことを前提にしている。これに対して追及側は、いらついたように「あなたはOppenheimer博士を弁護しようというbiasがあるのではないですか」と発言している。端なくも、追及側にOppenheimerを陥れようというbiasがあることを示したものになっている。

米国を勝利に導いたのは、Lansdaleのような人々であったのだ、と改めて思う。
先日、治安維持法違反に問われた事例について再審が認められたとの報道があったが、人間の精神の高邁さこそを発揮させる環境作りが日本において当時あっただろうか、と考える。そして、これは、常に起こり得る問題だ、ということを認識している必要があると思う。戦後であっても、白川静さんの記述に次のようなものがある。

多端な戦後処理のなかで、いろいろの問題があったが、敗北者として最も卑屈な日本人的心性をさらけ出したものは、いわゆる教職員適格審査であった。この審査は、第三者機関によるものでなく、それぞれの学内で構成される、いわば仲間裁判である。大学存続のために、適当数の不適格追放者を出すことが、免責の条件であるかのように取沙汰されて、魔女狩りのように同僚を売り渡すような裏切り行為が強行された。それは公職追放、軍事裁判と並行する形で全国的に進められ、多くの恥ずべき欺瞞が行なわれた。戦後のことが、各般にわたって見直されているなかで、その審査記録が公表され、その適否が改めて検討されるべきではないかと、私は考えている。時効にしてすませてよいという問題ではない。日本人の恥部ともいうべき、その精神構造に関する、重要な歴史的課題であるように思う。

本学では、五名の不適格者が発表された。そして文学部からは、小泉苳三先生が大学教授としての教学的活動のゆえにではなく、その短歌作品が戦争に協力する罪を負うべきものとして、不適格とされた。その判定書には先生の歌集『山西前線』の最終歌である

東亜の民族ここに戦ヘり再びかかるいくさなからし
の一首に対して、「所謂支那事変は、東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ」として不適格の判定を加えているが、この一首が、この戦争を不幸な事実として、くりかえされてはならぬとする意であることは、普通の鑑賞能力をもつ人には自明のことであろう。その歌集にはなお
つはものが生命散らせる土山に季来て草の蕾ふふめり
砲隊鏡に映る秦嶺山脈は突兀として寂しきに似つ
などがあり、戦争という行為の寂寥を歌うて、その慟哭を聞くような作品である。
小泉先生は、故総長の負託にこたえて文学科を廃絶の危機から守り、文学部の創設にも献身的な努力をされたのみならず、その尨大な明治大正短歌資料「白楊荘文庫」二千数百種、数千冊に及ぶ図書を、本学図書館に寄託されていた。当時唯一の組織的な蒐集として、学界の至宝とされていたものである。また戦後直ちに、学園の民主化にも努力され、信望の厚い人であった。

私は、このように歪められた解釈による原判定は容認すべきでないと考えて、再審を要求することを先生に求め、自ら再審請求書を書き、吉沢義則・斎藤茂吉川田順・窪田空穂・新村出諸先生の意見書を添附し、上告した。当時の中央教職員審査委員長は牧野英一博士で、この著名な刑法学者は、また歌人としても知られた人である。私が面接を求めて書類を提出すると、判定書の文に目を通されて、「あなたの学校に、歌のわかる人が少いようですね」といわれた、私は本当に恥ずかしかった。問題は、ただ歌の解釈能力にとどまることではないからである。

再審の結果は好首尾であったと聞いている。しかし非常抗告という方法がとられて、最終的には不適格となり、先生は学園を去られた。再審が通った人は少なかったということで、それだけでもせめてもの救いのように思われた。あとは何れにせよ政治的なことであろうし、ともかく記録が開放されれば、すべて明らかになることである。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/shirakwa/rohoku_iji4.htm

私は、日本人の恥部というよりは人間の恥部であり、いずれの国においても起こり得るものと思う。現代において、完璧でなければゼロであるというような物言いをする人々も少なくないことは、テレビをほとんど見ず、新聞もあまり読まない私にも分かる。
私にできることは、駅や道ですれ違う人も含めて、身近な人々の気持ちや言葉を大切にするところから始めることかもしれない、と思う。