光塩

光塩女子学院という学校がありますね。
「あなた方は地の塩である。・・・世の光である。」という聖書の言葉からの校名と聞きます。


この頃、聖書を読んでいると、イエスが、自分と、仲間の死を予見しながら、それに向かって自ら歩んでいく物語であることを感じます。
花婿が奪い去られる日の例え、ゼベタイの母への「私の飲もうとしている杯を飲むことができるか」との問いのような直接的な表現ばかりではなく、「人の子には枕するところがない。」という言葉や、この「地の塩、世の光」という例え話にも死の兆しを感じます。


エスには、自らの生き方や教えの実践は、当時は死を意味することが自分でも分かっていたのかもしれない。少なくとも、その生き方は、彼にとって理不尽な有り様を強いられ、卑しめられることになるものであったろう。
それにも拘わらず、人々に「地の塩」「世の光」として現れよ、と訓えることは、自らと同じように死の途にも就け、ということに等しい。
例えばエックハルトなども、それより外の生き方はなかったのだろう。