哀しみ

今、一番大切なものは哀しみであるように思えます。
以前の日記(http://d.hatena.ne.jp/pakira_s/20040611)でも書いたことがありますが、その哀しみは、例えば、聖書の次の話のキリストの姿に現れているように思います。

ヨハネ福音書 8 章
1 イエスはオリーブ山に行かれた。2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中においてから、4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場で捕まえられたのです。5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に女に石を投げなさい。」8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「女よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
http://www.anlwm.com/J-JOHN.htm#then

なお、以前の訳と現在の訳では微妙な違いがあり、私は以前の訳の方が好きです。
今の訳だと、人々に問われてから何か書き始めたとあるのですが、以前の訳だと、キリストは既に何か地に書いておられて、問われたときにもそのまま書き続けていた、とあります。その他、姦通と姦淫、「しつこく」といった表現などわかりやすさを旨として努力されたのだと思いますが、私としては以前の淡々とした表現が好きです。