怠業の誘惑

当時の情勢として、正式に学んでいないのに聖書や神、福音について述べ伝えることが宗教裁判では問題視された、ということのようだ。ロヨラは何度かこの責めを受けている。


エックハルトは逆に、どんなことでもパリ大学神学部教授であった自分であれば論駁できる、との自信があり、それが異端の判断を受ける原因になっているように思われる。


ロヨラは、学んでいないのにも拘わらず福音を伝えている、と非難されたことで、また自らも思うところあったと思うが、勉学の必要を感じ、勉強をする。
博士号もとるわけだが、勉強のための努力を意識的にしていることがよくわかる。そして、勉強をしているときには勉強に集中して、福音を述べ伝えることは勿論、自らの部屋で法悦に浸ったり、祈りに耽溺することもなく、刻苦勉励して学問を修めた、ということだ。
見習いたいと思う。


特に、ある巡礼者の生涯を読んでいて、大変面白いと思ったのは、勉強中に感じる祈りへの誘惑についての記述。
彼は、勉強をしていると、祈りをしたくなり、また祈りをした場合の法悦も大きいのだが、その法悦が通常祈りを行っているときよりも大きく感じられる。
これを捉えて、この宗教的法悦は、勉学を妨げようとしている悪魔の所業である、と見なしている。
確かにそうなのかもしれない。