新長横町

pakira_s2007-08-01

八戸に行ってきました。
以前も話したことがあるかもしれませんが、私は旅先では、繁華街の外れにある、古い、できれば倒れそうな、おばあさんがやっている飲み屋に行くようにしています。
今回は、既に70歳近いおかみさんがやっておられるお店に。
おかみさんは割烹着とかではなく、洋服を着ている。
カウンターが4席、3人くらいが座れる小上がりという広さのお店。壁は薄い木目の化粧板。
お客さんは私の他には誰もいない。
冷蔵庫の上には造花の桜の枝。
私が「きれいにしていますね。」と言うと、
「若い人なら何もいらないんだろうけど、私のようなおばあさんがやっているから」
と少し淋しそうに笑う。
おかみさんは、そのお店では10年くらいですが、その2軒となりの、今は空き地になっているところで30年くらいやっていたとのこと。
その空き地には、その辺りでは大きな白い建物が立っていて、ディスコとかやっていた。
以前のおかみさんのお店は、その白い建物の軒先に寄りかかるように仮設的に建てさせてもらったカウンターだけのお店だった。それでも、盛んなときには女性を2人くらい使ってやっていた。
三陸地震のときには、お客さんに身体障害者の人がいた。
その人は既にお勘定を済ませ、もっきりで注いであったグラスの日本酒を飲んでいた。
地震が来て、足が不自由なので、おかみさんが助けて逃げようとするのだけれど、もっきりのグラスを離そうとしない。後で聞くと
「自分のような、生活保護を受けて役に立たない人間はここで死んでもいいと思った」
と話していた。おかみさんは
「そんなことを言うものではない。それに、ここで死んだら私が困るでないの」
と励ました。
地震後には、寄りかかっていたビルから少し建物が離れてしまい、雨漏りがするようになった。
漬け物桶で滴って来る水滴を受けていた。
やがてディスコも閉じ、白い大きな建物も空いてしまい、時と共に傷んで、今度は小さな飲み屋の方に倒れかかってくるようになった。
その頃、2軒隣の、今のお店をやっていたママさんが脳梗塞で倒れ(「当たった」と言いますが)、おかみさんが店を引き継ぐことになった。


おかみさんには息子さんがいて、既に30代後半。
「ご結婚されているのですか」
と聞くと、首を横に振る。
「話もあったのだけれど、親が水商売をやっているというので反対されて。
悪いこともしていないし、それで子どもを育ててきたのに。」
「相手の女性のお父さんは大工さんで、ここにも飲みにきて、結婚も許してくれたのだけれど、お母さんの方がどうしても反対で。」
今は、ここからすぐのところに小さな家を建てて、息子さんと住んでいる。
まだローンは残っていて、息子さんが少しずつ返している。


私は、おかみさんにも、それこそもっきりのグラスの日本酒を一杯、一緒につきあってもらい、おいしいイカ納豆などを肴に、そんな話を聞きながら静かな晩を過ごしていた。私自身は、自分の話はほとんどしなかった。
値段も驚くほど安く、私は「次回の分で置いていきます」と言って少しだけ多めに置いてきた。