マタイ受難曲

今、窓の外は雨。


今週は、去年のクリスマスを過ごした教会から、マタイ受難曲の全曲鑑賞会をやってくれるとのご案内をいただいていて、行こうと思っていたのだけれど、ふと自宅まで帰ってきてしまい、そうなると再び外出するのが億劫で、結局行かずにしまった。


一昨日、ドルチェのDVDがまだ販売されているということで、つい購入してしまい、今日は見ていた。
やはり凄い映画だと思った。
私の記憶では、映画の中で音楽など使われていない、と思っていたが、しかし、マタイ受難曲が使われているところがあるのだった。


私は聖書を毎日少しずつ読んでいる。
今は、コリント人への手紙を読んでいる。ちょうど「死の棘」が出てくる手紙だ。偶然と言うべきか。
そこで、「死の棘」の出てくる箇所をよく読んでみた。
実は、私は、島尾敏雄さんの小説「死の棘」は読んだけれど、「死の棘」という言葉の出てくる聖書の箇所をじっくり読んだのは初めてであった。解説中に引かれていた「死の棘は、罪」という言葉だけで、「ミホさんに対して犯した罪に苦しむ様子を書いた小説ということでこうした題がついているのだろう」というような、分かった気になっていた。しかし、それは全く間違いだった。
聖書にはこうあるのだ。


「『死は勝利にのまれてしまった。
 死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
 死よ、おまえの棘はどこにあるのか。』
死の棘は罪である。罪の力は律法である。」(コリント人への第一の手紙15章55)


私は、おかしな表現だと思った。律法が、罪の力? これは一体どういう意味だ。
私は、パウロの手紙を読み返してみた。


「律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。(中略)あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。」(ローマ人への手紙7章1〜4)
(以下コリント人への第一の手紙)
「私がキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。」(11章1)
「山を移すほどの信仰があっても、もし愛がなければ、私は無に等しい。」(13章2)
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。」(13章4)
「肉と血とは神の国を継ぐことがない。朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。」(15章50)


これはほんの一部なのだが、全体的なトーンはこうしたものだ。
そして、15章55の「死の棘」の箇所に続く。
つまり、律法による罪すなわち「死の棘」も、死自体も、クリスチャンにとっては恐ろしくないものであり、それを超えたところに愛がある、ということなのだろう。
ミホさんはクリスチャンであり、聖書は読み込んでいただろう。
こうした流れはよく知っていたと思う。


私は、なぜこのような題を島尾敏雄さんがつけたのかは今は分からない、と言うべきだろう。
ことによると、自身で語った説明もあるのかもしれない。例えあったとしても、本当なのかわからない。


ふと気づいたが、今日は13日の金曜日ではないか。
どうも偶然が重なっているような気がする。。。。