自転車の修理

自転車のブレーキから異音がするようになる。

ディスクブレーキなのだが、購入したお店に相談すると、

「ブレーキパッドが摩耗してきているせいではないか」

とのこと。

そこで、交換をお願いする。

また、グリップのゴムが劣化し、ベトベトになってきたので、その交換もお願いする。

さらに、チェーンも飛んだり、外れたりするようになってきたので、この調整も依頼。

 

おかげですっかり快調になったが、チェーンへの注油も含め、定期的なメンテナンスの重要性を改めて認識した。

今後は、異音が出る前に、ブレーキパッドも交換し、グリップも同じくらいのタイミングで交換していこう。

確かに長持ちして欲しい、とは思うが、こうした部品は消耗品なのだ、という認識も必要と思う。

 

ところで、私の自転車は、パナソニックのJetterという電動アシストのものなのだが、2021年8月に大きなモデルチェンジがあったようだ。バッテリーの形状も変わり、ブレーキもディスクブレーキではなくなっている。

 

 

 

旧版Vaio Zフリップタイプのカーソルが勝手に動く

PCがおかしくなるのは、いつも突然だが、今回も、VaioZフリップタイプのカーソルが勝手にタスクバーに戻るとか、妙な黒丸が画面に現れてそこから動かないとか、正に怪談。

調べて見ると、公式のサポートで対応方法が掲載されており、そのとおりにやったら回復。

solutions.vaio.com

直ってよかったが、ちょっとびっくりした。

 

それにしても、このところ、一斉にいろいろなものが壊れたり、調子が悪くなったりしている。

私自身、大きな節目を迎えている。

つまり、私にとって、刷新の時期が来ている、ということなのだろう。

自分自身で考え、祈りながら事に当たっていきたいと思う。

Aniaryのリュックの修理

Aniaryのリュックのファスナーのところの布に穴が空いてしまったので、修理をお願いした。随分長く使っており、また、少々私の使い方も悪かったようなので、修理をお願いできることはありがたいことだった。

 

Aniary Backpack 15-05000 BlackWhite

 

修理は、このリュックを購入した、アメ横の生水さんにお願い。

www.guidenet.jp

こうした革製品は、長く使っていると味が出てくるので、こうして修理して使えるのはうれしい。

 

生水さんでは、PeroniとIl Bussettoのカードケースを購入した。

CARD CASE 名刺入れ(シームレス) | IL BUSSETTO-イル・ブセット

 

Thinkpad X1 carbon 5th のファンエラー修理

故障はいつでも突然ではあるけれど、今回も急にFan Errorが出て起動しなくなる。

裏蓋を開けてファンに付いた埃をハンディクリーナーで吸い取ってみたが、Fan Errorは出て続けている。

そこで修理に出すことにする。

いつも(と言ってもそんなに故障するわけではないので、実際には稀にだが)行く、秋葉原のThinkFactoryに電話。

ウェブで見ると、5thに着いては、要予約とあったので、どんな感じかな、と思ったのだが、在庫が一つあるので、今日の内に直せます、とのこと。

早速、自転車で秋葉原に向かい、修理をお願いする。

サクッと直してもらい、有り難いことだった。

ThinkFactory IBM Lenovo秋葉原 持込修理 販売 保守パーツ

 

ちなみに、返送して直してもらうことを前提に、初期化をしようとしたのだが、なぜか失敗。

私は、ハードディスクの頃から、Thinkpadを購入すると、オリジナルのハードディスクのクローンを作り、クローンの方を使って、オリジナルは保存しておくようにしている。

今回は、SSDなのだが、ある程度使い込んでから別のSSDに換装していた。

オリジナルのSSDに戻して初期化を試みたのだが、失敗したので、何か使い込む過程で初期化が妨げられるようなことをしたのかも知れない。

ThinkFactoryで聞いてみたが、あまりそのような事例は見ない、とのこと。

日本語のウェブで検索しても余り情報がないので、また英語のサイトも含めて調べてみようと思う。

 

また、ファンの動作として、電源を入れると、初めに少し回り、その後止まるというのは正しい動作とのこと。私は、回ってもすぐ止まってしまうので、それが問題なのかと思っていたのだが、やはり聞かないと分からないことは多いな、と改めて思った。

白いカシミアのコートの注文

今日は、つい、白いカシミアのコートを注文。

先日、後から注文した、ジャケットの本切羽仕様とスラックスの代金を支払いに行ったのだけれど、ふと思いついて、白カシミアの在庫を聞いて見る。

すると、まだあると言うことなので、注文してしまった。

なぜこんなことをしてしまったのか、よく分からない。

こんなコートを格好良く着こなしている自分が想像できない。

むしろ、場末の公園の、花もない花壇の縁石に、汚れた白いコートをシャツの上に羽織って、座り込んでいるようなイメージが浮かんでくる。

それが、戦いから帰ってきた姿であればよいと思う。

 

バッテリーなど

なんとなくVaioZ(今となっては新しいVaioZが出たので旧タイプ)の様子がおかしい。

電源コードを接続しても、充電しているアイコンにならない。また、使っていると、どんどんバッテリーが減っていく。そして、そのため、Battery Saverをonにしていると、電源に接続しているにも拘わらず、安全に状態をセーブした上で電源オフになってしまう。Batttery Saverをオフにしておけば継続利用はできるが、それもまた電源に接続せず利用する場合もあることを考えると物騒だ。

充電アイコンにならないので、充電していないのかと思ったが、初期起動のアプリケーションを最小限のものにして電源に繋いでみると、アイコン上は充電しているように見えないが、実は充電しており、満充電することができた(いたわり充電にしているので80%までだが。)。

そうであるとすると、何かCPUの利用レベルを上げるアプリケーションが存在しているということになる。確かに、このVaioは、常にファンが回っている状態で、非常にうるさい。私自身は慣れているが、周囲の人が驚くことがある。確かにバッテリーがへたってきているところはあるが、この常にハイパフォーマンス状態にしているのも改めようと思った。調べて見ると、これはDropboxであることが分かった。

とは言え、自動起動を止めてIndexが作成されないのも困るので、Vaioのセッティングで常にSilenceとし、またDropboxの優先度を下げて様子を見ることにした。

まあ、バッテリー が充電できなくなっているわけではないことが分かっただけでよいか。

ただ、今回の件で、どうもnotePCのバッテリーについて懐疑的になってしまった。
できれば、次回購入するマシンは、サクッと自分でバッテリーの交換ができるマシンにしたい。

PCは5年で買い換えるとすると、VAIOは2018年に購入したので、2年先ということになる。正直、このVAIOZは型落ちに近い状態で購入したので、現時点でかなりスペックに問題が出てしまった。とは言え、動いてはいるので、無駄遣いは控えよう。

購入は先として、どのようなオプションがあるのかを調べて見ると、実はバッテリーを交換することのできる機種はそれなりにある。NEC系のものなど、かなり手軽に交換できそうだ。

ただ、私はやはり英字キーボードがよい。まあそうこだわるものでもないが、やはり英字の方にすっかり慣れてしまったので、今からまた日本語キーボードを使うかと思うとぞっとしない。

以上の2点を踏まえると、やはり現実的な選択肢としてはThinkpadになってしまう。T14辺りか。T15は、テンキーまであって、逆に気持ちが悪い。バッテリーやキーボードの交換動画まであり、感動だ。問題は、なんとなくいろいろな場で使いにくくなっていることか。実は、VAIOZを購入したときも、外で日本製のものを使っていることをアピールするため、というところもあった。Thinkpadを見ていると、伝統の力は大きいことを感じる。そして、それを継承するための努力も大変なものであることも。再びこのようなブランドを日本で作ることができるだろうか。

エリアーデの幻想小説について(或いは仕事をせずにゲームをする大人になってからの言い訳)

 私も、本当に忙しく多くのやるべき仕事がある中で、このところ書いているようなゲームをやったり、小説を読んだり、書き物をしたりもしている。

 そんなことをせずに仕事をしていれば、どのくらい多くのことを成し遂げることができたろうか、との思いにも駆られる。

 ただ、私は、若い頃、不遜にも、文学を読まずビジネス書や歴史書を読んでいる大人を内心軽蔑していた。今は勿論そんなことはなくそのような人々も尊敬しているが、当時なぜそんなことを思っており、自身に関しては今も雰囲気として感じているかはあまり考えたことがなかった。

 今日、エリアーデ幻想小説全集1に収められている、沼野充義さんの「「聖」の顕現としての文学」を読んでいて、なるほどと思った引用箇所がいくつかあった。

 まず、ツヴェタン・トドロフの言として「幻想とは、自然の法則しか知らぬ者が、超自然と思える出来事に直面して感じる「ためらい」のことなのである。」(「幻想文学論序説」三好郁郎訳、創元ライブラリ)が引かれている。

 そして、エリアーデの言葉として引かれている次のもの。
「「蛇」の体験(筆者注:エリアーデが「蛇」という小説を執筆したこと。同作品はエリアーデ幻想小説全集1巻に収録されている。)は、私に2つのことを納得させた。
1 理論的活動は、意識的、意図的に文学的活動に影響することはできない。
2 文学的想像の自由な活動は、反対に若干の理論的意味を開示しうる。」

 更に、沼野充義さんの解説。
「さらに、エリアーデの考えによれば、文学作品の解読にも、ヒロエファニー(筆者注:「聖なるもの」の自己開示、というか俗を聖に変容させる弁証法的なプロセス)と同様、「隠されているもの」を開示するプロセスが伴うという。つまり、小説が描くのは普通、具体的なディテールや歴史的な状況の中に置かれた登場人物やエピソードだが、そこに「普遍的で模範的な意味」「人間的諸価値」を探り、理解していくことは「宗教現象の意味を再発見していくことに等しい」のである。
 このような言い方をしてしまえば、これは特にエリアーデの作品に限らず、優れた文学全般に当てはまる一般論になってしまうが、エリアーデの小説の場合はやはり、宗教学者エリアーデが探っていた「聖なるもの」がー学問的ディスコースを迂回し、寄り直感的な形をとりながらー顕現していることを感じざるを得ない。だからエリアーデ幻想小説の多くにおいては、ツヴェタン・トドロフ幻想文学論の鍵となる決定不可能な「ためらい」がやはり認められるとはいえ、最終的には、いかなる合理的説明も越えた驚異の輝きがほの見えてきて、ためらいの空間を揚棄してしまう。」

 このように見てくると、聖なるものを求めている場合、一般的にはビジネス書、学術書を読んだり書いたりするだけでは十分ではない理由が分かる。(とは言え、優れたビジネス書、学術書は、興味深く分かり易い表現で書いてある、ということとは別の意味で、文学・宗教書に近い、絶対者の存在を感じさせるものがあるのも事実である。)

 一方、聖なるものが人間に開示されるのは、ビジネスの現場や研究での活動や人間関係においてであると思う。

 つまり、エリアーデは小説を書き、それを自ら再読し解釈することで、研究の止揚を行っていたが、小説を書くことのできない私としては、デジタルノベルを含む小説を読むことにより、聖なるものに触れ、その体験とある意味での悟りを持って現実の仕事の場に戻り、戦いを続け、そこにおいて聖なるものを自ら体験・実践し、ビジネスの変革や研究の飛躍を図る、ということになる。或いは、人間関係の改善と表現できるようなものでもよいか。

 私の場合でしかないが、聖なるものを意識しないと、芯がぶれる。上司の顔色をうかがい、出世のみを目指す、上に諂い、下に当たり、自らの権威を維持するために理不尽を押し付けるといった行為は、聖なるものから遠ざかっていることを示しているように思われる。

【いやあ、大人になって、仕事をさぼってゲームをやる言い訳を考えるのも、しみじみするものがある。また、沼野さんも、スタニスワム・レムに凝っていた頃に知り、単なるSF好きのおじさんかと今日まで思っていた。東大の教授であったとは大変失礼しました。】

エリアーデ幻想小説全集 (作品社): 2005|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

大失敗|国書刊行会