狭量

ちょっと前に、「この年になると格好良く生きる」ことにしか関心が無くなる、と書いたような気がする。昨日、印南先生の講義を聴いて、なるほどこれが頭が固くなる、というものかと思った。結局、新しい価値基準を認める柔軟性がなくなってきているのだろう。別にその価値基準で自分の行動を律すると言ったことではないが、そうした価値基準が存在することを認識し、一定の社会的影響を持ち、その価値基準で考えた場合には異なった結論が導かれ、諸般の状況の中ではその価値基準で判断する乃至はその価値基準での考慮を行うことに価値がある場合がある、といったことは認識しているべきだろう。
「格好良く生きる」という言葉が、実は狭量への道になっていないかを徹底的に考え抜く必要がある。
また、その際、自らを虚しくして神の道具となることに徹することができればよいのだが。先の浅草橋教会での礼拝で、信徒の方がお話をする前に「神様、私が言うべきことを言い、言わずに済むことを語らずにおくことができるようお導き下さい。」とお祈りをされていたが、よいお祈りだ。私もこの祈りを、語るとき、また著すとき心で唱えることとしたい。