カブ

ハウルの動く城」をこの頃いつもかけている。
今日、ふと思ったのは、かかしのカブのこと。
私は、特にもののけ姫、敢えて言えば紅の豚以降が特に好きですが、それは、やはり終わったところから始まる感覚があるせいでしょうか(紅の豚は趣味的に好きです。他の作品も勿論好きですので比較の問題ですが。)。
もののけ姫などは、せっかく一見ハッピーエンドになりながらも、アシタカにはあざは残り、またサンとも別れて暮らす、という形になります。
また、千と千尋の神隠しでは、千尋のこれからの生き方もさることながら、これからハクと湯ばあばがどのような形であちらの世界で戦うことになるのか、それだけで年代記ができそうな予感がします。
それに比べると、何となくハウルの動く城はハッピーエンドが過ぎて、今後のことに思いがつながっていかないような感じが初めはしたのですが、どうも何度も見ているうちにそうではないような気がしてきました。
やはり、戦争は終わっているわけではないし、また、隣の国の王子というのも、これから帰ってやめさせるというのですから、かかしになる魔法をかけられた経緯(しかもそれは「こんがらがった魔法」であるということを思えば本人にもいろいろ問題がある)を考えると、そんなに容易なこととは思えない。
サリマンにしても、今まで戦争をやめさせられずにいる上に、これから総理と参謀長と話す、つまり王に命じる力があるわけでもない。健康もすぐれない。後継者と目すハウルはやっと独り立ちしたといっても、子供のままで国を預かるにはまだ力不足(もちろん、やってみないと分からないが情緒だけで国を治められるわけでもない)。
しかも、この双方が意志を通わせなければならない。
そうだとすれば、これから実際に戦争を終わらせられるかは、やってみなければ分からない。
それに、ソフィーにかけられた魔法はまだ解けていないのかもしれない。
また、ひょっとするとハウルは死んでしまっているのかもしれない。最後の歌は、ハウルが死んだことを暗示しているようにも思える。本当は、この筋の流れだと、生きていられないような気もする。


そんな中で、隣の国の王子というのがオタク的にはポイントのように思う。
隣国の王子は、「心変わりは人の常といいますから」と言っているが、考えてみると、彼は、嫌いと言われながら、ショールをとりに嵐の中を歩き、雨をしのぐ場所を探し、雨の中で泣くソフィーに傘を差し掛け、最後には命をかけてソフィーたちを助ける。これは、正にオタクの品格の真骨頂ではないか。
大体、女性の皆さんの手前、顔では笑っているものの、やはり未だに木村拓哉などを声優として使ったことは、私をはじめとするオタクの諸君は決して許すことはできないはずだ(きっぱり)。そんな、従来からのファンのための存在が、このかかしである隣国の王子であると思う。
ハウルは、老婆であるソフィーのうちの若々しい心を見ることができる。
しかし、なんとなく二人の心は行き違いがあるようにも見えるのは私だけか。
そして、ソフィーの心の美しさはもちろん、本当にソフィーの気持ちを分かり、ソフィーの魔法を解くことができるのは、この隣国の王子と見た。
ずっと思い続けることを、英語では、carry the lanternと言うそうではないか。
私も、lanternjを名のっている(関係ないが)。
その意味では、これから戦争を終わらせるための戦い、そして隣国の王子の、ソフィの心に至る旅の始まりが、この映画の終わりのシーンであり、この時点で、ハウルとうっとりしている女性の皆さんを横目に、隣国の王子に感情移入して、自らの戦いの地に赴く、というのが正しいオタクないしオタク的宮崎駿ファンのあり方と思う。
(いやー、実に勝手な解釈であった。でも、まあ、そのような見方をも許してくれる多義性がこの映画にはありますね。)