働くこと

今日は、Eckhart説教集の「観想的生と活動的生とについて」を読む。
一部を写しておきます。

マルタは既に長く、しかも生きるべく生きてきたからである。生きることは最も高貴な認識を贈ってくれるのである。生きると言うことは歓喜や光よりもよく認識するものである。生きると言うことは、この身体で経験できる全てのもの、ただし神は除くが、そのすべてを真に与えてくれるのである。
(働くということ)
ある人たちは、わざから解放されるようになりたい、と思っている。私はあえて言うが、そのようなことはあり得ないのである。使徒たちは精霊を受けとった後で、はじめて徳行を働きはじめたのだった。それゆえ、マリアが主の足下に座って主のことばを聞いていた時は、まだ彼女が学んでいたときであった。ようやく学校に入って、彼女が生きることを学びだしたときだったからである。後に彼女が学び終わり、キリストが昇天し、彼女が精霊を受けたとき、はじめて彼女は奉仕の生活を開始し、海の彼方にまでも旅をし、説教をし、教え、使徒たちに使える女、洗濯する女となったのである。聖者たちは聖者となるときはじめて徳を働きはじめるのである。そのとき初めて彼らは永遠なる浄福のための護りを固めるからである。(恩寵に)先立ってなされる働きが罪をあがない、罰を転ずるのである。わたしたちはその証をキリストに見出す。神が人と成り、人が神となったそのはじめから、キリストはわたしたちの永遠なる救いのために働きはじめ、十字架上の死に至るまでずっと働き続けたのである。彼の身体のどの部分も、際だった徳を働かなかったところはなかったのである。

先日、薬物依存症のリハビリ施設を運営されている方の本を読む。
本当に、日々お酒のような感覚的な快感を得ることから、それこそ一日だけ、一時間だけという感じで身を引きはがしていると、不思議なことが起こってくる。
本来の感覚が研ぎ澄まされてくるのだ。
美しいものが美しく見えてくる。
そして、少しづつでも前に進めればよいと思っている。
それにしても、働く、ということこそ、本来の「快感」を得る道と思う。
例えば薬物など、本当に問題なのは、人体が持っているものに近いために脳に直接強烈な快感を与えるからだと言う。本来、そうした快感は、厳しい鍛錬と生活によって得られるものであり、だからこそ快感としてしっかりと味わえるのだろう。「生活」「働くこと」なしに「快感」を得るところに問題がある、というのは不思議だ。
Eckhartの、この働きについての説教は、彼の伝えられる人生を思うとき、特に切なく、今は、彼の遺書のようにさえ思えるのだ。
しかも、不思議なことに、今日に至るまで、この説教は他のものよりもよく思えずにいた。
「シシガミは死にはしないよ。生と死そのものだから。私に、生きろ、と言ってくれた。」という、アシタカヒコの言葉も思い出した。