エリアーデの幻想小説について(或いは仕事をせずにゲームをする大人になってからの言い訳)

 私も、本当に忙しく多くのやるべき仕事がある中で、このところ書いているようなゲームをやったり、小説を読んだり、書き物をしたりもしている。

 そんなことをせずに仕事をしていれば、どのくらい多くのことを成し遂げることができたろうか、との思いにも駆られる。

 ただ、私は、若い頃、不遜にも、文学を読まずビジネス書や歴史書を読んでいる大人を内心軽蔑していた。今は勿論そんなことはなくそのような人々も尊敬しているが、当時なぜそんなことを思っており、自身に関しては今も雰囲気として感じているかはあまり考えたことがなかった。

 今日、エリアーデ幻想小説全集1に収められている、沼野充義さんの「「聖」の顕現としての文学」を読んでいて、なるほどと思った引用箇所がいくつかあった。

 まず、ツヴェタン・トドロフの言として「幻想とは、自然の法則しか知らぬ者が、超自然と思える出来事に直面して感じる「ためらい」のことなのである。」(「幻想文学論序説」三好郁郎訳、創元ライブラリ)が引かれている。

 そして、エリアーデの言葉として引かれている次のもの。
「「蛇」の体験(筆者注:エリアーデが「蛇」という小説を執筆したこと。同作品はエリアーデ幻想小説全集1巻に収録されている。)は、私に2つのことを納得させた。
1 理論的活動は、意識的、意図的に文学的活動に影響することはできない。
2 文学的想像の自由な活動は、反対に若干の理論的意味を開示しうる。」

 更に、沼野充義さんの解説。
「さらに、エリアーデの考えによれば、文学作品の解読にも、ヒロエファニー(筆者注:「聖なるもの」の自己開示、というか俗を聖に変容させる弁証法的なプロセス)と同様、「隠されているもの」を開示するプロセスが伴うという。つまり、小説が描くのは普通、具体的なディテールや歴史的な状況の中に置かれた登場人物やエピソードだが、そこに「普遍的で模範的な意味」「人間的諸価値」を探り、理解していくことは「宗教現象の意味を再発見していくことに等しい」のである。
 このような言い方をしてしまえば、これは特にエリアーデの作品に限らず、優れた文学全般に当てはまる一般論になってしまうが、エリアーデの小説の場合はやはり、宗教学者エリアーデが探っていた「聖なるもの」がー学問的ディスコースを迂回し、寄り直感的な形をとりながらー顕現していることを感じざるを得ない。だからエリアーデ幻想小説の多くにおいては、ツヴェタン・トドロフ幻想文学論の鍵となる決定不可能な「ためらい」がやはり認められるとはいえ、最終的には、いかなる合理的説明も越えた驚異の輝きがほの見えてきて、ためらいの空間を揚棄してしまう。」

 このように見てくると、聖なるものを求めている場合、一般的にはビジネス書、学術書を読んだり書いたりするだけでは十分ではない理由が分かる。(とは言え、優れたビジネス書、学術書は、興味深く分かり易い表現で書いてある、ということとは別の意味で、文学・宗教書に近い、絶対者の存在を感じさせるものがあるのも事実である。)

 一方、聖なるものが人間に開示されるのは、ビジネスの現場や研究での活動や人間関係においてであると思う。

 つまり、エリアーデは小説を書き、それを自ら再読し解釈することで、研究の止揚を行っていたが、小説を書くことのできない私としては、デジタルノベルを含む小説を読むことにより、聖なるものに触れ、その体験とある意味での悟りを持って現実の仕事の場に戻り、戦いを続け、そこにおいて聖なるものを自ら体験・実践し、ビジネスの変革や研究の飛躍を図る、ということになる。或いは、人間関係の改善と表現できるようなものでもよいか。

 私の場合でしかないが、聖なるものを意識しないと、芯がぶれる。上司の顔色をうかがい、出世のみを目指す、上に諂い、下に当たり、自らの権威を維持するために理不尽を押し付けるといった行為は、聖なるものから遠ざかっていることを示しているように思われる。

【いやあ、大人になって、仕事をさぼってゲームをやる言い訳を考えるのも、しみじみするものがある。また、沼野さんも、スタニスワム・レムに凝っていた頃に知り、単なるSF好きのおじさんかと今日まで思っていた。東大の教授であったとは大変失礼しました。】

エリアーデ幻想小説全集 (作品社): 2005|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

大失敗|国書刊行会

 

 

 

「運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ」続き

ホワイトソフトの「運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ」について。

これも、オープンニングがDual Force というところや、二つの風とか、本来のシナリオ、あったであろうルートやストーリーなどについていろいろ考えさせられる。

ホワイトソフトのゲームは、やっていて気持ちのよいものが多く、私は好きなメーカーなのだが、いつも感じるのは、ホワイトソフトには、全体をクリアに、仕上がりのよい作品として提供する、いろいろな意味での力が無い、と言うこと。残念ながら(真剣)。

しかし、問題は、条件が揃えば生み出せるかというとそれも疑問であること。

よい環境と思われる状況で、田中ロミオが作った「和香様の座する世界」

和香様の座する世界 | みなとカーニバル

が正直今ひとつ(とは言え、十分素晴しい水準だが)であるのは不思議なことだ。

苦しみながら、環境も時間が豊富にあるような状況でもない中で作った「最果てのイマ」とかの方が突き抜けているように思われる

私も、今、与えられた環境の中で、最善を尽くしていきたいと思う。

るいは智をよぶ

  暁ワークスの「るいは智を呼ぶ」をプレイ。フルボイスによるリメイク版だが、オリジナルは2008年だから、今から13年も前と言うことになる。

オープンングが最高に格好いい。

るいは智を呼ぶ OP 『 絆 』 - YouTube

 何とかやりきったし、それなりに楽しく、終わったときには、また現実で仲間と一緒に戦う意欲も湧いてきた。ただ、それでも、再びやろうとか、ファンディスクを買おうとかは思わなかった。

 いろいろ理由はあるが、一つには「こより」というキャラがなじめないことがある。問題から逃げるのもよいし、また実際の世界でもこのように逃げる者はいる。その事情や心根も分からないことはない。そして、試練を経て成長し、信頼関係を共有し、また共に戦うことができるようになるのかも知れない。ただ、このゲームでは、そのような感じはない。お姉さんへの対応や、トランクの盗み方など、視野が狭く、私としては共に戦いたくない人物だ。また、智についても、こよりの姉(とその不正を行っている会社)の証拠隠滅のために、自分や仲間を危険にさらすという行為が理解できない。思い上がっているように思う。
 もう一つ、私が奇妙に思ったのは、呪いの力がなくなったら、花鶏も家の再興をあっさり諦めてしまったことだ。呪いの力がなくなったところがスタートなのではないか。呪い自体が存在意義だったのだろうか。呪いの力を使わず、誇り高く生きるのが花鶏なのではないのか。誇りは全て呪い由来だったのか。
 更に、智についても、呪いがなくなったのに、なぜオトコノコでいるのか。面倒だから女装している、って呪いはその程度のものなのか。それなら好きでやっているのと変わらないではないか。というか呪いがなくなった今は本質的に好きでやっているだけであり、都合の良いときは男性として女性に接している以上、例えば女性の更衣室に同じように入るのは呪いが解けた段階では犯罪に近い。こうした基本的な倫理に対する考察が何ら示されていない。
 また、るいにしてもそうだ。何だか軽そうに見えるが、今を大切に生きる、という姿勢はとても格好いい。しかし、その格好良さが未来に約束できないという呪いがなくなった途端になくなってしまうものなのか。

 つまり、総じて登場人物の思いが浅く思える。逆に言えば、呪いの意味が軽すぎる。 あってもなくても同じではないか。尹央輝だけは、昼に陽の光を浴びて笑っているシーンにぐっと来た。彼女の場合こそ、呪いの存在は、養女になったことやグループの長になっていることも含め、かつての状況からの脱出にとって重要なものであったはずだ。何となく、常務は彼女が呪いを失ってもそのまま養女にしているような気もする。そうであるとすると、むしろ、今度は、呪いのない尹央輝として、そのポテンシャルを開花させることが「常務」、父に対しての一応の務めということになるのかも知れない。ということはあるのだが、尹央輝の場合は、やはり陽の光を浴びている姿がとてもよい。呪いが解かれて、本当にうれしそうに見えるのは彼女なのだ。
 逆に言えば、惠は特別として、他のメンバーは呪いが無くなって残念、という感じしか出ていない。この辺が描けていないのは大きな欠陥だ。つまり、先ほど花鶏のところで書いたとおり、呪いという軛がなくなった段階で、何かそのためにできなかった本当にやりたいことに向けて歩き出すことを描くべきなのだ。今の状態は、呪いがなくなって情けない状態になったことだけが描かれている。それがこの世界での客観的現実なのかも知れないが、主観的な状態こそ重要であり、その主観的状態、認識、そしてそれに基づく行動を5年も続ければ運命は変わる。各キャラが呪いとの関係の中で鍛え上げた「自分」を礎として、呪いがなくなった段階からの始まりが描かれるのが楽しみなのだ。例えば、るいは呪いがなくなったのに、全然約束しない、でも、変な身体的能力はなくなったのに、約束したであろう以上の結果を、現在を大切にすることで生み出すとか、そんな感じのシーンを描いて欲しかったのだ。それがないなど、残念でならない。
 もちろん、論語ではないが、この物語に自分の思いや他のゲーマーの思いを重ね、ぶあついものにしていくことは可能と思うし、そうなっているところもあるのだろうが、やはり私は共感できない。

 とは言え、批評空間でも、巷でも、このゲームの評価は、ギャングスタ・リパブリカや「運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ」より遥かに高い。私のような感じ方が少数派ということなのだろう。

このゲームも、18禁要素は不要な感じ。
移植もされているが、カットすればいいだけなので簡単なのではないだろうか。
むしろ、現在だと、同性愛に対する表現について問われるのではないか。オトコノコについて、呪い、という位置付け自体が問題とされそうだ。(その意味では、江口寿史の「ストップ!ひばりくん」はすごい。確かに作中その性癖を批判する者はいるが、それを全部ポジティブな方向にひばりくん自身が自然に変えてしまう。言い寄る男女で人間としてダメな奴は断固拒否、という姿勢は、男女の差とは関係ない。作者に偏見がない、生物的に男性であっても精神として女性であることに全然違和感を持っていない、ということはそういうことなのだ。)

18禁のゲームについては、現在は
1 エロを目的にしたものと、
2 流れの中で18禁の場面のあるもの(必然性やプレーヤーの期待のあるもの)、
3 本来18禁要素は必要ないが大人の事情で18禁になっているもの、
と3つのパターンがあるように思う。

1は論外というか、それはそれで需要があることは分かる。ただ、これは今後どうなっていくかよく分からない。一定の需要はあるのだろうが、あまりにも性的欲求を対象とした産業や映像作品・バーチャル作品が多くなっている昨今、英語で言えばデジタルノベルであるこのジャンルの作品は、中途半端な感じがする。むしろ、文字だけの作品の方がアピールするのではないかと思えるほどだ。

2のパターンについて、私も、恋愛要素が強いゲームで、何も進展がないことが約束されている非18禁も味気ない感じがする。ただ、例えばこの「るいは智を呼ぶ」とか「運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ」については、むしろ非18禁がよかった。考えてみると、ホワイトソフトについて言うと、この作品に限らず、例えばギャングスタ・リパブリカやギャングスタアルカディア、猫撫デストーションや同Exodusも、非18禁の方がよい。そんなことは、制作者にも分かっているのではないか。では、なぜ18禁で販売されるのだろうか。そう考えると、3というジャンルがあるように思える。この「大人の事情」というのがなんなのか(実はないのかも?)、今は考察や調査を深めることができない。また機会を改めたい。

運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ

今日はホワイトソフトの「運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ」を始めた。

何というか、気持ちがいい。

この、今いる世界とは別の世界で、少しだけでも遊べるというところが、このようなゲームというかデジタルノベルの楽しさだ。

それにしても、批評空間のコメントを見ても、コメントしている人が実に楽しそうで、それなのに冷静に低い点を付けてんじゃないよ、という気分だった。採点票みたいなチェックリストがあり、それにチェックを付けて総合点数、みたいな点の付け方のできる代物ではないでしょ、と相手も既に十分わかっていることを言ってみたい気分。

(追記)プレイ終了。

このゲームの仕組みは、例えば、シュタインズゲートのような仕組みで、一人を攻略すると、次のルートが始まり、前の攻略はなかったことになる(つきあっていなかったことになる)が、その過程で知り得た謎の解明やヒントなどはプレーヤーに引き継がれていく、という仕組みだ。

この仕組みは結構好きだ。

そもそも、本来、誰かを選ぶとか、本当の意味で全ルートクリアしないといけないとかというのは、特に思い入れのあるキャラがあるときにはつらい。従って、ある意味、軽いレベルで攻略が進んでいくこのシステムは嫌いではない。このような、ある意味なかったことにするというか、ない前提で進んでいく場合、グランドルートでは、ハーレム化するとか、真のヒロインと結ばれるとかいろいろあるが、私は誰とも付き合ってなかった感じが好きかとも思う。シュタインズゲートの場合は、もちろん、紅莉栖という真のヒロインと結ばれるわけで、それになんの文句もないというか、いい感じだった(ちょっと説明が過剰ではあるが。)。

この「運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ」については、敢えてどのようなエンドであるかは書かないが、私は初めて見たパターンのエンドであった。とても爽やかで、うれしかった。このゲームの題名と重なる素敵なものだったので、今後やる人にもそれを経験して欲しいと思う。

私も、今回は、もう一度やってみようと思っている。そして、それを踏まえて、また書きたいと思う。本当に青春のただ中にいる人がこれをプレイしたらどんな気持ちになるのだろう。ことによると、それはとてもよい経験になるのではないかとも思う。引きこもっている人も、いろいろな原因があるのだろうから一概には言えないが、次の跳躍に備えて身を屈めているような引きこもりでしかも本人や周囲がそれに気付いていない(気付いていないので引きこもりと言われるのだが)ような時、このゲームをやると、また歩き出してくれるかも知れないと思う。

私が以前、組織から派遣されて大学で教壇に立っていたとき、組織に戻る前の、最後の授業のときのことだ。私は、授業の出席のカウントは、出席票に一言書いて授業の最後に提出、という形でやっていた。一言というのは、例えば「教室の窓から見える空が青かった」とか何でも良いから書いて出して欲しい、ということだった(もちろん授業の感想や評価でもOKであり、学生の皆さんは、大概はそのようなことを書いてくれた。)。その一言の中や学内LANでの授業へのコメントで「授業に途中から入ってくる人が騒がしいし、出席票は初めの方に配っておけばいいのではないでしょうか。」と書いてくれる真摯な学生もいた。最後の授業の、その最後で「私にも経験があるが、大学時代には、引きこもって本を読み考え込んでしまうような時期があると思う。そのような時期はある意味必要なものと思うが、その経験から目の前が開けたとき、また外に出てくるためのきっかけがなにかあるといいと思っている。例えば、この授業は最後に出席を取るので、まだ間に合うから久しぶりに友人に会うためにでも行って見ようか」というきっかけになればいいと思っていた。まじめに授業を受けている人には少し迷惑だったかもしれない。申し訳なかった。」という話をした。その時は、いろいろコメントをもらっていたこともあり、本当に申し訳ないと思っていたので、謝る意味で説明をした。学生のみなさんの前途を祝し、授業を終えて資料を片付け始めると、徐々に拍手が広がって、全体で拍手してくれたときは驚いたが、うれしく思ったことだった。
本来、大学での最終講義というのは、本当の学者の皆さんにとっては大きな意味があり、その期の学生さんだけではなく、かつての教え子も来たりして、もちろん最後は盛大な拍手で終わるものだ。私の場合、そのようなものではなく、普通に授業をしただけであるが、学生の皆さんは、これが私の最後の授業である、と私が話をしたので、礼を尽くしてくれたものと思う。最後の授業でも、ことさら違うことはしていないので、また出席票を集め、教室を出た。私の、最後に出席をとることの説明について、感想を書いてくれた学生もいた。

ウィザーズ・コンプレックス&Whitesoftなど

 Gangsta Republica、Arcadiaが大変よかったので、元長さんのシナリオのものをやってみようと思ってウィザーズ・コンプレックスをインストール。
ただ、元長さんのシナリオに入る前に挫折してしまった。
まさに地の文やセッティングなどが馴染まず、既に残された時間も短い私では無理かな、と思った。
それでも、スキップしながら一応1時間30分くらい付き合った。

 Gangsta Arcadia も気に入ったのだが、製品として問題があることは私にも分かる。また、その後にWhitesoftから発売された「猫撫ディストーション 恋愛事象のデッドエンド」はクラウドファンディングでパッケージ版として販売されたが、やはりファンからの批判がある。

Whitesoftは、ギャングスタアルカディア以降はかなりひどい状況であったようだ。
その意味では、むしろ、猫撫デストーション&同Exodusやギャングスタ・リパブリカが一応完成していることがむしろ有り難いことと考えるべきなのかも知れない。

 また、やはり私が気に入っていた「ひよこストライク」を出していたEx-it もこうした面では評判が悪い。
 とは言え「逃避行ゲーム」も今ひとつではあるものの、やはり雰囲気があり、切なく、絵も可愛く、私自身は気に入っている。
 また、後継ブランドのInsyncの「妄想コンプリート」も楽しいのだが、途中からちょっと付き合えなくなり、最後まではやっていない。
 こうしてみると、Ex-it系では、ある程度ちゃんと完成したのは「ひよこストライク」のみか。「ひよこストライク」も、もっといろいろ知りたいと思うことがあった。それが味わいでもあったのだが、次の作品としては、ひよこストライクの続編とかがよかったのではないだろうか。

 いずれにしろ、ホワイトソフトにしても、Ex-itにしても、この時点では、光るものはあるが完成させる能力のない組織、という評価になるのだろう。
 私自身も、振り返ってきちんと一定のクオリティのものを提供してきたかは内心忸怩たるものではあるが。また、それは若さということもある。当然ながら、若い頃、コンセプトだけはあったが、それを完成させるところまでもっていくことができなかった経験はある。
 今でも、やりこと、あるいは、プロジェクトなどについてアイデアやプロットを提示はしたが、完成したり成功したりしなかったことはたくさんある。Hard thingの中でベン・ホロビッツも、スタートアップでは10のうち成功するのは3くらいで、それでも10のチャレンジを続けなければならない、そして、ぎりぎりのところでは「この弾丸を外したら終わり」というような状況で結果を出す必要がある、と繰り返し述べている。
 そうした意味では、こうした光るものを持っている皆さんには、失敗にめげることなく、経験を糧として、よいものを作ってくれることを期待したい。

 こうした、やっていて楽しいが未完成のものというのがある一方で、本当にインターフェイスや絵は素敵で、評判も悪くない、私もとてもやってみたくなるようなもので、どうしても合わないものがある。
 私にとって、それはetudeというメーカーのゲームとかだろうか。。「そして明日の世界から」とか「七つの不思議の終わるとき」とか、本当に素敵な雰囲気なのだが、何が駄目と言うこともないのだが、日常の会話をずっと流して読んでいくことができない(これはウィザード・コンプレックスも同じだが)。かといって雰囲気があり、スキップだけで終わらせるのは惜しい。何度かチャレンジしているのだが、最後まで進むことができず、残念に思っている。
 そうした意味では、物語の登場人物たちと一緒にいられたことがうれしく思えるような作品は、未完成であっても大切にしていきたいと思う。
 そもそも私は、購入の際には一般の評判も参考にするが、購入して自分でプレイし、また考えるときには、自分以外の評価など気にしないではないか。特にネガティブな評価の中には、評価する者こそ反省した方がいいのではないかと思えるようなものが含まれていることがある。自分の思考を鍛えていくこと大切と思う。

 

あと、全然関係ないが、未完成と言えば、「おたくまっしぐら」を思い出す。あれはまた違った事情があったのものと思うが、やはりメーカーを責めるのは気の毒にも思う。よく出してくれた、と思ったりする。

ギャングスタ・アルカディア

前回も Gangsta Arcadia について書いたが、やはり私にとって特別なもののような気がするので、もう少し書いてみたいと思う。
少しネット上で探してみて、次の感想がなんとなくしっくりきた。
ただ、おかあさんのお話は必須だと私は思っている。

あいか部屋: ソファの上の理想郷

 

ギャングスタアルカディアは短いとか絵が少ないとか言われているようだ。
私自身はそのようにまったく感じなかったが、確かに,事実としてはその通りと思う。

 

それなのに、ずっと考えさせられる。
私も、こうしたデジタルノベルは好きでいろいろやってきた。
ただ、このような感じは初めてだ。

 

何となく、このアルカディアグノーシスを思わせるところがある。
もともと、旧約聖書失楽園のあたりは、何だか変な感じがする。
(まあ、旧約聖書は全般的に怪しい、妙な感じがする読み物ではあるが。)
知恵の実を食べ、お互いが裸なのを恥じる、と言うことがある。
更には、永遠の命の実には人間は近づかせない、といった記述がある。

 

なぜ知恵を得てはいけないのか。
なぜ人間に永遠の命を与えないのか。
更には、エデンの東、とはエデンの一部であったのだろうか。永遠の命の実は、知恵の実を食べる前であれば、「人間」が食べることができたのだろうか。

蛇は一見悪いもののように描かれているが、また、人間に知恵の実を食べることを勧めたことで地を這うこととされたとあるが、それはどのような含意か。地を這うとは、人間にずっと寄り添うと言うことではないのか。また、裸を恥じる精神から一人の人を愛する気持ちも生まれてきたように思う。新訳聖書にあるように、天国においてはそうではないのだ。

 

そのように考えてみると、アマネが人類の人格を救おうとし、ループを奪う病気を広めようとした段階で、実はアマネは天使ではなく、堕天使、悪魔になっていたのではないか。何と言っても、innocent であることが神にとって人間が楽園に住むことの要件なのであり、人格を得ることなど、余計なことなのだ。ループが当たり前であり、更にそのループを普遍化する動きがあるなかで、ループを止めようとすることは悪魔の所業だ。

そして、アマネが受肉できなくなった、とあるが、これは叶にループを与えることで悪魔ではなく天使に戻っただけなのではないか。

その意味で、叶は、徹頭徹尾、悪だったのだ。しかし、厄災を生きる、という段階で、既に悪という言葉は出てこない。正に楽園にいるのだから。悪ではないのだから。


私にとって、このギャングスタアルカディアが特別であるのは、聖書の新しい解釈というか、グノーシスについてしみじみと理解する縁となったためだ。グノーシスも「悪」も、神を否定していない。否定するどころか、人間的な嫉妬する神、人間に知恵を与えない神ではなく、母を弔ったときの悲しみも含めて人間存在であるとする、エックハルト道元の神、別の言い方をすれば、ある意味で宗派を超えた、大いなる存在であると共に人間と合一である、神秘主義的な神をいただいている。

 

最後の選択で、アマネが身を退いたのは、天使も(そして人間も悪魔も)神の被造物であるというアイデンティティを指摘され、しかも、選択しない=神の判断に任せる、というアマネより上位の存在を示されたからと思われる。

 

さて、ここで先に引用した感想にもあるのだが、凛堂禊のポジションがよく分からない。
最後の人格者、という言葉や天使に敵対していることを考えると、「悪」であるようにも思えるのだが、「救世主」という言葉も使っているし、ループのある世界を積極的に推進するような言動もしている。ことによると両義的な存在であり、ルート毎に位置づけが変わってくるのかも知れない。

 

また、宮本が非常に面白い存在だ。
彼女は、初めから子供であり、天国・楽園の住人だ。
そして叶の昔からの友人だ。叶が楽園にいた頃(ループを持っていた頃)からの友人であり、そのままの関係での友人ということだろう。

 

さて、このゲームをやったお蔭で、やはり中国のような民主主義ではなく一人一人の権利にも配慮した民主主義の方を自分としては選択する、ということを理由を持って語れるようになった。

 

仮に、天国を追われた存在=人格を持っている人間というルートが存在した場合、それはどのようなものとなったであろうか。
最後の人格者、と言う言葉や組み立てからして、またリパブリカのジェネシスも考えると、やはり禊か。それともシャールカか。シャールカも両義性を持ちうると思う。

 

前回の記事と同じ最後だが、Orchestral Codeはいいと思う。特にインスツルメンタルで聞くのがよいと思う。

『ギャングスタ・アルカディア』をスマートフォンで遊ぼう!

Gangsta Republica / Gangsta Arcadia

スマホ用に萌えappから、Gansta Republica / GanGansta Republica / Gansta ArcadiaGansta Republica / Gansta Arcadiasta Arcadia が提供されている。

猫撫デストーションも面白かったので、この2つをやってみた。

 

とても良かったと思っている。

特に、猫撫デストーションでもそうだったが、「寂しい」感じがとてもいい。

風の強い曇りの日、誰もいない河原の公園に一人でいるような感じだろうか。

 

Gansta Arcadiaは、構想段階では、2ルートあったのではないだろうか。

選択場所はあるが、選択肢が1つしかないところがある。

また、Gansta Republica では、Genesis が2つあり、本当は2つのGensisに対応するルートがあったのではないか。

Gansta Republicaの現行のendは、こおりのGenesisに対応したもののみのように思う。

こおりのGenesisの最後の、

「春。あたらしく3年になって、新しいクラス分け。

昇降口のところに張り出された紙を見上げる。

そこにある自分の名前と相手の名前を確認してー

あたしは、感情を抑えることができなかった。

『はじめて叶と同じクラスだっ!やったーー!』」

とあるのは、正に新たな聖天義学園ができているということだろう。

つまり、例えば1年、2年と違うクラスで3年で一緒のクラスになったという意味ではなく、3年生を何度も繰り返す中で、初めて一緒のクラスになった、と言う意味なのだろう。

そして、Gasnta Arcadiaの冒頭のxxxth summer of "Gangsta Republica" とあるのがちょっと鳥肌が立つ。

Gansta Republica で春日が「あくまで偽物のループなんですから、何年も続けてると、人間は年をとりますよね。」と言っていた。

それなのに、何百回というループになっている。

Gansta Arcadiaでは、最後に声を失い、文字を失っているように見えるが、実は肉体を失っているのかも知れない。

ただ、アマネ(天音)が人格を救おうとした段階は、まだ過剰なループが聖天義学園に止まっている段階で、禊の言う、社会全体に広げるところは始まりつつある段階で会ったのではないか。

思いだけが学園に止まっている、その思いがどのように学園、社会に伝播していくのか。ボットというコンセプトにはぞっとさせるものがある。

このルートでは、天使は、受肉するだけの力を蓄え、こおりと叶の子供の天音として生まれたのかも知れない。

 

また、全くの推測だが、禊のGenesisに対応するルートは、正に禊とともに叶が「救世主」になるルートであったのではないか。

その場合には、Gansta Arcadiaの前半は2年生ルートになるのかも知れない。つまり、禊を選ぶことにより2年生ルート、シャールカを選ぶことによって3年生ルートになる。そこまでは両義的に解釈できるものとして描かれる。

そして、禊を選んだ段階で、二人の子供の周が生まれ、成長していくルートができ、大きなループができる、その重なりの部分で幼い叶に成長した叶と娘が出会う、と言った感じになることを夢想してみる。つまり、幼い叶が会ったのは、救世主である叶とその娘であったのではないかと思ったりする。

そのようなルートを描き切るのはGansta Republica後1年では無理だったのではないか。

 

Orchestral Scoreをずっと聞きながら思いに耽っている。